清正公(せいしょうこう)
江戸時代以降、祖師日蓮聖人とお題目の利益、清正公や日蓮宗寺院への参詣等の様子が落語の中に現れている
「せいしょうこうさかや 清正公酒屋」
念仏宗の饅頭屋と法華を代々の宗旨とする酒屋とは、通りを間に向きあって店を構えているが、甘党と辛党という商売柄のちがいに加えて宗旨もことなり、ことごとに仲が悪い。
酒屋の息子が饅頭屋の軒先にさげてある虎の看板を見て怖がり虫をおこして大熱を出したので、酒屋の親は虎の看板をひっこましてほしいとたのむが、そんな憶病な子を生んだ親が悪いのだ、とにべもなく断わられる。
酒屋は口惜しく思って檀那寺に祈祷をたのみ、虎退治の加藤清正の木像を軒先にかけると息子の虫気はたちまち平癒した。
因果はめぐるその一年後、今度は饅頭屋の女の子が、その木像を恐れて病気になったので、饅頭屋の親も木像を引っこまして下さいとたのむが、酒屋は断わってしまう。
やがて女の子はどうやら病気は直るが、両家の不仲はますますひどくなる。
ところが、その酒屋の息子饅頭屋の娘は年頃になるとたがいに好きあい、夫婦の約束をかわしたものの親たちは許すはずもなく、二人は連れ添えないのを悲しんで大川に飛び込む。
息子はお題目の功徳と日頃信ずる清正公のおかげで助けあげられる。
我にかえった息子が女房も助けて下さいと言うと、清正公が「いやいや、あの女は助けられないぞ」「よく考えてみろ、おれの敵の饅頭屋の娘だもの」というサゲになっている。
噺の途中で鳴物入りの芝居噺になる。
宗旨のことなる両家のがん固さもうきぼりにされているが、それだけに清正公の救いが念仏を宗旨とする家の娘にまで及ばない限界も見られる。
しかし、全体として法華の宗旨と清正公の利益が強調されている。
加藤清正(一五六二−一六一一)織豊時代から江戸初期の武将。
尾張(愛知県)愛智郡中村に生る。幼名虎之助。
少時より母親伊都(聖林院天室日光)の縁をもって豊臣秀吉に仕える。
賤ケ岳の合戦等多くの戦功をたて、天正一一年(一五八三)三〇〇〇石を与えられる。
同一三年従五位下主計頭に叙任。同年、発星院日真を招請し大坂に本妙寺を創建。
同一五年讃岐(香川県)の領主尾藤知宣改易に際し一時讃岐国代官を務めたが、この時、尾藤家の武具調度等を秀吉から与えられ、在来の家紋蛇の目に併せて尾藤氏の家紋桔梗を用いる。
翌一六年肥後(熊本県)の領主佐々成政改易、肥後を小西行長と共に分与され、熊本城主となり、二五万石を領す。
同年天草の国衆一揆に行長を援け、一揆討伐に戦功をあぐ。
文禄元年(一五九二)朝鮮の役に先鋒として従軍、朝鮮王子臨海君・順和君を捕う。
慶長二年(一五九七)蔚山の籠城戦に奮闘す。
慶長五年、関ケ原の戦では肥後にあって東軍に属し、九州の西軍ことに小西行長の宇土城、立花宗茂の柳河城を攻略。
その功により行長の旧領及び豊後鶴崎地方を加封、五四万石を領す。
慶長八年従四位下肥後守に叙任。
一方、豊臣秀吉の旧恩に酬いるため豊臣家の存続に意を用い、慶長一六年二条城における徳川家康と豊臣秀頼の会見実現のため大坂方の説得に努め、当日は秀頼の警護に当る等尽力した。
同年六月二四日未明、熊本城内において薨じた。
本国寺日桓僧正のもとに葬儀、兼ねて寿蔵の地と定められていた熊本西郊中尾山中腹に廟所を造営、遺骸を納めた。現在の本妙寺浄池廟がそれである。
法名浄池院殿永運日乗大居士。
清正はただ武将としてだけではなく、築城を始め治山・治水・干拓等の土木技術にも傑出していた。
熊本城・名護屋城の設計はことに有名。
また領内の河川工事や新田開発等において、従来の群小土豪割拠の弊害を匡正、肥後一国の統合的見地より施工、現熊本県の基礎を形成した民政家としてもすぐれ、その遺構は今日の熊本県民にも恩恵を及ぼしている。
家中の士卒や民衆に対する慈愛等多くの伝承があるが、特に本妙寺三世高麗日遙の撫育、朝鮮国両王子の優遇、あるいは朝鮮人金宦の殉死等に、清正の民族を超えた仁愛・温情をうかがえる。
また清正の法華信仰については、父親清忠が美濃(岐阜県)の斉藤道三に仕え、道三没落後尾張に隠栖したと伝えられ、道三との関係から日蓮教団との結びつきが推測されるが、父親とは早く死別しているので、母親伊都の感化によると思われる。
また尾張地方は本国寺六条門流の教線が早くから展開し、こうした点から日蓮教団ことに本国寺との結びつきが生れたと考えられる。
信仰内容は、当時盛行していた三十番神信仰を中心とした現世利益的信仰にかたむいていたが、戦いに明け暮れする武士の心情の一側面としてうなずけるものがある。
その現当二世祈願のため大坂に本妙寺を創建、肥後半国の領主になるに及びこれを熊本城内に移建した。
在来肥後における日蓮教団の活動は殆どみるべきものがなかったが、清正の肥後入部と本妙寺の移建によってとみに活発化した。
清正を始め、その一門重臣によって多くの寺院が領内に建立され、また清正の勧めで改宗した大村喜前の外護により、その教線が肥前に伸長する等、肥後はもとより西九州の日蓮教団=六条門流=の発展の基礎は清正によって形成された。
また清正没後日ならずして清正を異能・権化の人とする伝承が生れ、清正公(せいしようこう)大神祇と奉称し信仰する、いわゆる清正公信仰がみられてくる。清正の仁政・その熱烈な法華信仰、あるいは加藤家断絶等に対する民衆の報恩讃仰あるいは哀惜の念が然らしむるところであり、宗派を超えた信仰を集めて今日に至っている。
近世における庶民の法華信仰にみられる一特色を示し、清正公信仰を通じて唱題に親しみ法華信仰に入信する経路が、熊本はもとより九州における法華信仰発展の一基調をなしている。
《中野嘉太郎『加藤清正伝』、立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、池上尊義「肥後本妙寺と清正公信仰の成立(『日本宗教史論集』下)》