三十番神

三十番神というのは、日本国中に祀る三十の神々が、一ヵ月三十日の間、

毎日、順番に国家と人々を守ることをいう。

日蓮宗では、この神々を仰いで現世利益の祈願を捧げる慣わしが広く行われている。

天台宗では、王法(天皇)と仏法が一致するという理論から、皇室を守護とする神々

は即ち法華経を守護する神々であるという思想があった。

いわゆる神仏融合思想で、平安時代の中頃には既に存在していたようである。

この思想は更に進んで、如法経(法華経の写経)守護の神と仰がれるようになり、

如法経の広がりと共に三十番神信仰は全国に及んだ。

この三十番神信仰を取入れたのは、京都に開教した日像上人である。

ところで、天台宗でいう如法経三十番神は次のとおりで、日蓮宗に勧請されるものと

基本的には同じである(『諸神記』下による)。

一日=伊勢  二日=石清水  三日=賀茂  四日=松尾  五日=平野 

六日=稲荷  七日=春日  八日=大比叡  九日=小比叡  十日=聖真子 

十一日=客人 十二日=八王子 十三日=大原野 十四日=大神 十五日=石上  

十六日=大倭 十七日=広瀬 十八日=龍田 十九日=住吉 二十日=鹿嶋  

二十一日=赤山 二十二日=建部 二十三日=三上 二十四日=兵主 

二十五日=苗荷  二十六日=吉備津 二十七日=熱田 二十八日=諏訪 

二十九日=広田 三十日=気比

 日蓮宗の古い寺を訪れると、三十番神を祀った「番神堂」が多く見掛けられる。

中には岡山県賀陽町の妙本寺番神堂や兵庫県尼崎市本興寺番神堂のように、

いずれも桃山時代の様式をもち、国の重要文化財に指定されているものさえある。

このように、実際に木像を安置した例は十六世紀よりさかのぼることはできないが、

三十番神の絵像や神名帳は、南北朝時代には広く行われていたようである。

日蓮宗に三十番神信仰を取入れたのは日像で、その曼荼羅本尊の中に積極的に

三十番神を書き入れている。

また中山法華経寺三世貫首日祐が康永二年(1343)に著した『本尊聖教録』には、

三十番神を文字で書いたものと画像に描いたものの両方が記入されているが、

日蓮宗が発展する初めから、三十番神の信仰が大きな意味と役割を持っていた

ことが、これによってよく窺われよう。

 ところで、日蓮聖人はかつて「神天上」の法門を唱え、日本国に正法=法華経が

行われないために、国土を守護すべき善神は天上に去ってしまい、様々の災難が

次々と競い起ると考えた。

それならば、天上に去ってしまった神、即ち『法華経』の広まる国を守護すべき善神

を敬い、現世の平安を祈念することによって、かえって『法華経』を流布させよう

ではないか、というのが彼らの主張であった。

それ以来、日薄宗における三十番神の信仰は年毎に盛んになり、『雍州府志』に

「日蓮宗寺院に悉くこれ(三十番神)を勧請す。

日蓮聖人のとき、伊勢・八幡の二神を勧請して法華経守護神となし、日像上人の

とき、三十社の神を勧請して、一と月三十日のうち一日ごとに守護神をおく」と

説明されるほどにもなった。

こうして三十番神堂が日蓮宗の寺院内に建立されると、現世利益の効験を祈って

多くの人々がこの堂に参詣するようになった。

彼らは、今日はどの神が守護するというような形ではなく、毎日毎日を、全国

あらゆる地域の様々な効験を招来する神々が守護してくれるものと信じた。

更に寺の本堂に設ける過去帳には、毎日の題目と共に、その日を守護する神名が

記されるようになったのである。(日蓮宗事典)

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