お大黒さん
大黒天は梵音は摩訶迦羅といい、インドのシヴァ神の化身であると言われており、大黒はその
訳語、大古久、大去垢等と書かれ、元来は戦闘神、また貿易の神である。また堂舎や食厨の神、
富貴・爵録の神として尊崇され、西方の諸大寺の食厨、倉庫の柱や門前に祀られていることを『
南海寄帰伝』は記している.
その形相は色は黒また青黒、体相は一面二臂、一面八臂、三面六臂で忿怒相か、または普通の
顔、丈は二尺乃至五尺、持物は髑髏を指した杖、刀、戟、人頭、羊牝、象皮、異獣(以上は六臂
・八臂)をもち、大袋・金嚢いずれかを左右に、右手は挙に握って右腰につけている(以上二臂
)。
更に『大黒天神法』は「自分を伽藍に安置し日々に敬供すれば千人の衆僧を養い、また我を供
養する者には世間の富貴、乃至官位爵禄を与えよう。我か身体は五尺もしくは二尺に作し、膚色
は黒色、袴をつけ駈寨を垂れず、狩衣をつけ、衣は袖を細くする。右手は拳となして右腰に、左
手に大袋をもたせ肩からかけてその垂れは臀の上に余り、色は鼠色にする」とある。
こうした種々の形相の大黒天は一般に知られている俵の上の福徳円満、微笑した形とははるか
に異なっている。この点、徳川時代初期のころの学匠日満もその著『録内啓蒙』に「大黒の形像
は世間流布する所とは違」っていると記している。しかし少なくとも鎌倉中期以前の大黒天像は
俵も福相、笑顔もなく、むしろ憤怒・峻厳の相好が多い。
大黒天が一般に流布している俵の上の福相となるのは、鎌倉期の末から室町期にかけてその先
駆があらわれはじめ、室町期に入り大国主命と結びつき、夷神と関連し一般に普及されるに従っ
て、左手に袋、右に小槌をもち、米俵の上に立ちあるいは座り、腰掛ける姿となり、顔貌は普通
から漸次笑顔に移ってくる。(宮崎)
大黒天神供養相承事」
於我朝大黒天神出現の初を申せば、仁王五十代桓武天皇の御宇に、伝教大師叡山坂本に於て対談候なり。
色黒く、長短く、形円にして目細く、額にふりし黒き烏帽子をかぶり、後に袋をかつぎ、手に槌を持て同行なく只一人。
伝教大師是に行逢給て、汝誰人ぞと問給。
我大黒天神なりと云て、貧衆生に福を為与出現すと答。
色黒きは如何と問給。
無明即法性深理の表示と答ふ。
長短く形円成は如何と問。
是即万法円備を顕すなりと答。
老体如何と問。久遠正覚、歳長て世間相常住を顕すなりと答。
独眷属無之如何と問。
唯我一人能為救護との答なり。
目細く笑顔成は如何と問給。
慈眼視衆生の心なりと答。
偖て後の袋如何と問給。
福聚海無量と答。
偖て本地如何と問。
皆令離苦得安穏楽と答。
偖て叡山へ同心有勧請。
伝教大師貴辺一日に如何程人を学と問。
一日に一万人学す、日本には毎日一千人可学答。
其時伝教大師曰、日に合て三千人宛可学と云大願あり。
其時大黒天神曰、然ば我三千人の養育を可請取なりと答。
故に尤三塔に各一尊宛大黒天神を祷、三処に勧請し、日に三千人の学の衆生に福を与給。
大黒天神の尊形と云者是別事に非。
普門品の慈眼視衆生福聚海無量と可得意なり。
仍て忝も本地久遠釈迦如来是なり。
深き相伝習如此。
可秘云云。
右此旨守、大黒天神信者現世安穏福祐自在来世成仏得脱無疑。
縦毎月毎日信事難成者、六斉甲子供物調可有御祭祀者也。
是秘中の秘なり。
文永元年太歳甲子九月十七日 日蓮 花押
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