ある子ども会設立のお世話をさせて貰ったことがあります。
母親から見た今の子どもたちは、やる事が多くて、一日の時間が足りないほど。
大人顔負けの強行スケジュールをこなしている子も少なくありません。
部活動、塾、家庭教師、はたまたお稽古事と、じっくりひとつのことに取り組む暇すらない子もいます。そんな超多忙スケジュールの子どもたちに、改めて時間を作るというのは酷なもの。
でも、子ども会が楽しいと思えればやる気も起るというものです。
私も三人の子どもの親ですか・・・
親は、どんな時でも、子どもが「うれしそうにしている」とか、「楽しそうにしている」姿が見たくて、いろんなことを考えているものです。
これは、親子の場合だけでなく、自分の大切に思っている人には、いつも笑っていてほしいし、うれしそうにしていてほしいし、幸せそうにしててほしい と思うし、
その願いは、そっくりそのまま、自分に返ってくることでもあると思うのです。
自分のことを思ってくれている人のために、まずは、自分が笑っていること、自分が楽しそうにしていること     
それが、きっと相手を幸せにしてあげることにもつながると思います。
ですから、子ども会は「自分たちが楽しむ」をモットーにしました。
一人で楽しんでも、周りが楽しくなければ楽しさも一人分です。
でも、みんなで楽しめることができれば、楽しさは何乗にもなります。

子ども会の設立当時は、何かと手伝っていました。
すると、或る方に「手伝うな。子ども達にさせなさい。」と言われました。
はっとしました。
今の子ども達は、はじめから、すべてあたえられています。
同時に、あらかじめ「これは、やっていい」「これは、だめ」という、さまざまな制約もあたえられています。
ある意味、子ども達は、自分で考え、自分で選び、自分で歩いていく選択を知らずに生きてきたのです。
あたえられたもので生きることが人生だと、思いこんできたのです。
知らずにいることをやれと言っても、できないのは、当然のことなのです。

自分で考え、自分で選び、自分で決めて、自分で行動する。
そんな生きかたをしてほしい。そんな生きかたのなかから、自分の幸福を見いだしてほしい。
その方のそんな思いに、親として考えさせられました。

私が、もともと、お節介でもあるのですが・・・
サポート役という立場にいると、ついつい、あれこれと、世話を焼きたくなります。
足りない部分ばかりが、目についてしまいます。
でも、あらためて、こころに刻みました。
必要とされなくなることを目標にしつづけよう。
「来ないで」と言われて喜べる自分でありつづけようと。

その為には、子ども会では、私は、絶対に手伝わないこと。
子ども達がどんなに未熟でも、どんなに準備不足でも、大人になって、社会に、そのままの自分で、出ていかなくてはならない。
だれも助けてあげられない。
自分のちからで、乗り切らなくてはならない。
子ども会での大切な時間を、その貴重な体験を、おとなの余計な手助けで、
こわしたくなかったから。
だって、それは、子ども達の舞台であって、私の舞台ではないのだから。
子ども達の体験であって、私の体験ではないのだから。
だれも、子ども達の代わりにはなれない。
だから、失敗も含めて、すべて、自分で受け止めて、自分で超えていってほしい。
そのために、「手伝わない」という決意をしたのです。

何もかもあたえられて、真実が何かわからなくなっている子ども達にとって、いま必要なのは、そんな体験なのです。
ゼロから発見する喜び。
手探りで体験するうれしさ。
ひとつひとつが、わかってくるわくわく感。
それらを、子ども達と一緒に感じる場をつくることこそが、私達大人の役割では、ないのかと・・・。

あたえることをやめて、体験する場をつくると、子ども達も、少しずつ考えはじめます。
自分の常識や認識から見ると、まだまだ足りないことも多いです。
けれども、すべてが体験なのだと思うと、じっと待てるようになりました。

外がわから、あれこれと批判することは、いくらでもできます。
でも、子ども達と自分は生きてきたプロセスがちがうのです。
いま、自分に見えていることが、子ども達にも見えているのはかぎらないのです。
そんなとき、自分の尺度に照らして、子ども達を変えようとすることは、はっきり言って、おせっかいです。
もしも、どうしても、子ども達を変えたいと思うなら、子ども達の尺度にあわせて、一緒に体験していくしかないのです。
子ども達が興味をもったとき、子ども達が意欲を見せたとき、はじめて、私達の体験が役に立ちます。
私達の知識や智慧が、意味をもちます。
私達のなすべきことは、そうした興味や意欲が沸いてくる楽しめる場をつくることだけなのです。

そして、蛇足ですが、
子ども達の人生は、子ども会に関わっている間で、終わりではありません。
でも、私がかかわれるのは、その時間だけなのです。
だとしたら、その時間のなかで、すべてを到達させようなんて、思う必要もないのです。
私が彼らに伝えたい思いが、子供たちの小さな胸にどのように沁みているのかいないのか。
それを今確認することはできませんが、やがて彼らが大人になったときに、ほんの少しでも残っていてくれたら、どんなに嬉しいことでしょう。

子ども達は、子ども達の人生を生きていきます。
あるものは、二十歳で、何かを発見するかもしれません。
あるものは、六十歳で、何かに気づくかもしれません。
あるものは、一生、何も気づかないかも知れません
でも、それでいいと思っています。

私達は、たがいに、かかわれるかぎりは、こころを尽くし、そして、分かれるときには、その先の幸福を祈るしかないのです。
子ども会に出会ったときから、別かれることは決まっていました。
だとしたら、最初から、手放すつもりで、かかわるしかありませんでした。
子どもたちにとって、自分が必要とされる人間になるのではなく、必要とされなくなるように、育てていくこと。
それが、本当のサポート役。

「アネモネはね、風に乗ってどこまでだって飛んでくの、
      ・・・・・・そして必ずきれいな花を咲かせるの」

アネモネの花は、雨が降っても風が吹いても、その種は
風に抱かれて、どこまでだってとんでゆき、
必ずきれいな花を咲かせるのだそうです。
アネモネみたいになりたい。
今 は 今 しかないんだって
"表現したいことを表現しないでどうなるのだ。”
そう、今感じていることも、表現したいことも、
いま は いま しかないんだから
伝えたいことを表現しないで どうなるのだ ?

風を待っていても飛べなくて・・・
そうではなくて、風は いつも、今も、吹いていたこと
風はいつだって そっと そっと 優しく吹いていて、
私を包んでいてくれて、静かに心を澄ませばその風に
乗れるのかも知れない 花びらの「ひとひら」が。

アネモネの種は風に吹き飛ばされていたのではなく
むしろ種は風に守られていたのだと 思いました。
芽を出して、自分が花を咲かせる場所を みつけるまで
風に守られて 運ばれていくんだって。

風は優しい。

"伝えるって、いつかこれからの話じゃない、 今がその時なんだって。” 









ひとひら