ものごとを決めるとき。行動にうつすとき。
パッと動ける子もいれば、悩んで迷って、なかなか動き出せない子もいます。
だから、同じアドバイスも、ひとによって有効だったり、役に立たなかったりするのです。
けれども、これだけは共通だ、と思えることがあります。
「自覚ができたとき」
この瞬間から、子どもたちは、(そして、おとなたちも)主体的に動くことができるようになるのです。
「自覚」とは、「自ら覚える」と書きます。
「自ら(目)覚める」ともいえるかもしれません。
いずれにしても、「自ら」がかんじんです。
だから、相手にたいして、「自覚しなさい」というのは、実はナンセンスなんです。
それは、「他覚」といいます。てか、そんな日本語は存在しません。(笑)
ただ、相手に自覚してほしいと思う場合に、それなりに有効な方法はあります。
自覚は、それが自分にとって、やるだけの価値(意味)があると感じられたとき、
芽生えます。
だとしたら、私たちにできることは、その価値が、見えるようにしてあげることです。
そのひとの、ほんのちいさな新しい一歩を、きちんとみとめてあげること。
うまくいってもいかなくても、試行錯誤したことにたいして、OKを出してあげること。
それはある意味、闇夜にあかりをともす作業なのかもしれません。
はじめてのことは、闇夜をあかりなしで歩くことに、ひとしいのです。
はじめてでなくても、自分が(まさに)「自覚」してこなかったことは、はじめてと同じことなのです。とはいえ、こうこうと照らす必要はありません。
突貫工事をして、道の両がわ1メートルおきに、街灯を完備してしまうのは、
やりすぎです。(笑)
手もとのちいさなあかりひとつで、いいのです。
あるいは、寄り添っていっしょに飛んでいくほたるのあかりだって、いいくらいです。
そのちいさなあかりをたよりに、道を進むとき、不安を超えて、一歩一歩、
自分の足で、歩いていることがわかります。
ときには、つまずいたり、暗がりの何かにおびえることがあっても、
ちいさなあかりに勇気をもらって進むことが、できますからね!
やがて、その歩みは、少しずつ大胆になっていくでしょう。
そのうち、自分で、あらたなあかりをつけることもできるようになるかもしれません。
あるいは、ともに歩く仲間を見つけて、そのあかりをあわせることができるように
なるかもしれません。
そのころにはきっと、胸をはってまっすぐに、前を向いて進むことができるようになって
いるのですよ。もう、「自覚しなさい」なんてことばも、必要なくなっているんです。
もしも、あなたが、だれかに自覚をもってもらいたいと思ったら、
どうぞ、そのひとに、ちいさなあかりをあげてくださいね。
そして、あなた自身が、そのちいさなあかりを、だれかにもとめることもできるのです。
そうやって、私たちは、これまでの歴史を歩いてきたのですからね。
これからも、歩いていくのですからね。
だから本当にありがとう、なんです。
ひとひら
☆ ちいさな あかり
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