現代語訳ご遺文  諸法実相抄

諸法実相抄(しょほうじっそうしょう) 

日蓮これを記す  

お尋ねするが、法華経の第一巻・方便品第二に、「諸法実相というのはあらゆるものの相と性と体と力と作と因と縁と果と報と、さらにその本と末とがすべて等しく帰一するところの原理をいうのである」と説かれているが、この経文の意味はどういうことか教えていただきたい。  

お答えしよう、この法界のすべてを十界と称して十に分けているが、その一番下の地獄から上は仏界に至るまでの十界の全てのものは、ことごとく一つも残すことなく妙法蓮華経のすがたであるという意味の経文である。  

依報といわれる草木国土が存在すれば、必ず正報といわれる生物・有情が住んでいるのである。したがって妙楽大師は法華文句記の第十巻で、「依報も正報も共にいつも妙法蓮華経を説いている」と記し、また同大師は金?論の中で「実相というのは法界のあらゆる諸法のことであり、その諸法は必ず先に迹べた相・性・体等の十和から成り立っているのである。そしてこの十如は必ず地獄から仏界までの十界を構成している。そのまた十界は必ず依報・正報の二報によって存在しているのである」といっている。  

さらに同書には『阿鼻地獄の依報と正報とはすべて仏の心の中にある。また仏の依報と正報はともに凡夫の一念の中にあるのである』とも説いている。  

これらの解釈を見ると明らかに一念の中に三千の諸法があることは疑いの余地のないところである。したがって宇宙法界のすがたは、すべて妙法蓮華経の五字と同じであって別のものではない。釈迦・多宝の二仏も妙法等の五字が作用して衆生を救済しようとするとき、二仏の姿となって現われ宝塔品の会座(えざ)の時のようにうなずき合われるのである。  

このような法門については、日蓮を除いては他に一人も言い出した者はいない。先の天台・妙楽・伝教等の大師らも、心の中では知っていたが口に出して言うことをせず、深く胸の中にしまっておられた。  

それは道理のあることで、仏からこの経を弘めよという付属を受けていないからであり、また時期も、またその段階に至っていなかったからである。さらに仏の久遠の昔からの弟子ではなかったのである。  

地涌(じゆ)の菩薩といわれる仏の本弟子の中の上首で唱導師たる上行・無辺行等の本化(ほんげ)の菩薩よりほかの者は、末法の始めの五百年に出現して、法体の妙法蓮華経の五字を弘めることはできないのである。そのうえ、宝塔品で説かれているような釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で並び座し、大事な法門が説かれていった儀式の姿を作り現わしていく事は本化以外にはできないのである。  

これはすなわち法華経本門寿重品の肝心である事の一念三千の法門だからであり、弘める人も本化の菩薩でなくてはならないからである。  

したがって釈迦・多宝の二仏も作用として現われた仏であり、妙法蓮華経こそ本仏でおわしますのである。寿景品には「如来の秘密、神通の力」とあるごとくで、如来の秘密とは本体である三身(法身・報身・応身)を備えた本仏のことである。神通の力とは作用としての三身であって迹仏と称されるものである。また元来、凡夫は本体の三身を備えた本仏であり、仏は作用としての三身であり迹仏であるといえる。  

もしそうだとしたら釈迦仏はわれら衆生のために主・師・親の三つの徳を備えられたものと思っていたが、そうではなくて、かえって仏に三徳を備え奉ったのは凡夫のほうであったことになる。その訳は、如来というのは天台大師が法華文句の第九の中で、「十方三世の諸仏を始めとして、二仏(真身.応身)・三仏(法身・報身・応身)・本仏・迹仏等すべての仏の通号である」と判断している。

この文の中の本仏というのは凡夫のことであり、迹仏というのは仏のことである。だが衆生は迷っていて仏は悟りを得ているという違いがあるのであって、本来は衆生も仏も本体・作用ともに一緒の三身であるということを知らずに迷っているのである。  

さて、そこで諸法といわれている十界は実相のことだと説かれたのであるが、実相というのは妙法蓮華経の異名である。すなわち諸法は妙法蓮華経ということである。  

地獄は地獄の姿を見せるのが実の相であり、餓鬼に変わってしまったら、地獄の実のすがたではなくなってしまう。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、そして万法の当体のすがた、すなわち真実の相が妙法蓮華経の当体であるということを諸法実相というのである。  

天台大師は「実相の深理は、本来常住の妙法蓮華経である」といっている。この文の意味は、実相の深い法理というのは迹門につけられ、本来から存在するところの妙法蓮華経というのは本門の上につけられた法門である。この解釈は簡単には理解しにくいので、よくよく心中に考えてみていただきたい。  

日蓮は末法に生まれて上行菩薩の弘められる妙法を、他の者に先立ってその概要を弘め、さらに本門寿量品の古仏たる釈迦仏を始め、迹門宝塔品のとき涌出された多宝仏、涌出品のとき出現した本化地涌の菩薩等をまっさきに作りあらわし奉ったことは、日蓮にとって大変に意義の深いことである。この日蓮をどのように憎む者であっても、その心の内に得た証(さとり)についてまではいかに権力者といえども、いかんともしがたいものである。  

従って、このように日蓮をこの島(佐渡)まで遠く流罪にした罪は無量の永きにわたっても、消えるとは思えない。譬喩品に「もしも法華経の行者を迫害する者がいたならば、その罪は年数が尽きるようなことがあっても、なお尽くしきれないほどである」とあるのはこのことである。

また日蓮を供養し、日蓮の弟子檀那となられたことは、その功徳の多大であることは仏の智慧をもってしても計算することはできないほどである。薬玉品には「仏の智慧をもってはかってみても、とてもはかることはできない」と説かれている。  

この大地の中からわき出たといわれる本化の菩薩のさきがけは日蓮一人である。地涌の菩薩の数に入っているのかもしれない。もしも日蓮が地涌の菩薩の一員として数えられるとしたら、まさに日蓮の弟子や檀那も地涌の菩薩の一類ということになるのではないか。

法師品には「よくひそかに一人のために法華経の一句であっても説き聞かせたならば、まさにこの人はすなわち如来の使いであり、如来から派遣された人で、如来のなすべきことをなす人である」とあるが、これは別に他の人々のことを指しているのではなく、われわれのことを指しているものであろう。  

さて、人というものは他人からほめられると、どのような困難なことでも成し遂げてやろうとするものである。これはほめられた言葉を聞いてその気が生起してくるためである。  

末法に生まれて法華経を弘める行者は、三種類の敵人があって、行者を流罪や死罪にするであろう。しかし、それによく耐えて妙法を弘めようとする者を、釈迦仏は衣をもって覆いかばって下さるし、諸天善神はその行者を供養し、肩にかけ背中におぶって助けて下さるであろう。

大善根の者であり、一切衆生のためには大導師であると、釈迦仏・多宝仏を始め、十方の諸仏菩薩や天神七代.地神五代の神々、鬼子母神・十羅刹女、四大天王・梵天・帝釈・閻魔法王・水神・風神・山神・海神、大日如来・普賢・文珠・日月等の諸尊たちにほめられるので、無量の大難を忍んだのである。ほめられれば我が身の損することもかえりみず、またそしられるときは我が身の破られることもしらずに振る舞うのは凡夫の常のあり方である。  

いかなることがあっても、このたびは信心を強くして法華経の行者となりとおし、日蓮の一門とおなりなさい。日蓮と同意ならば地涌の菩薩ではないか。地涌の菩薩に定まれば、釈尊の久遠からの本化の弟子であることは疑いのないことであろう。

涌出品には「我は久遠よりこのかたこれらの衆を教化す」と説かれている通りである。末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は、男女の区別をつけるべきではない。みな地涌の菩薩の出現でなければ、唱えがたき題目である。  

日蓮が一人で初めは南無妙法蓮華経と唱え出したが、二人三人百人と次第に唱え伝えていくのである。未来もまたこのようになっていくことであろう。このことがすなわち地涌ということの意義ではなかろうか。大地の中から無数の人々が湧出して、広くこの妙法が流布したときは、日本中に南無妙法蓮華経と唱える人々で満ち溢れることは、まさに大地を的とするように確かなことである。ともかくも法華経に名を立て身をまかせて、経文のごとくに実践してみることである。  

釈迦仏や多宝仏、それに十方の諸仏菩薩が、霊鷲山の虚空会(法華本門の会座)において、釈迦・多宝の二仏がうなずき合いつつ定められたのは他のことではない。ただひとえに末法の世に、法華経が久しく弘まっていくことの為であった。すでに多宝仏は宝塔の中にあって、半座を分けて釈迦如来にゆずられたとき、妙法蓮華経の旗を立て、釈迦.多宝の二仏が大将となって定められたことには、断じていつわりは無いはずである。それはまさしくわれら衆生を仏にさせようとする御話し合いであったのである。  

日蓮はその座にいたわけではないが、経文を見ると少しの疑問もないところである。またその座にあるいは居たのかもしれないのだが、凡夫なので過去のことを覚えていない。

だが現在のことはよく見えており、法華経の行者である。また未来についても間違いなく仏の道場に詣ることは決定している。過去のこともこうした点から推察してみると、虚空会にも列なっていたことであろう。過去・現在・未来の三世は別々ではないからである。  

このように思い続けてみると、日蓮はいま流人であるけれども、喜悦は計りしれないほどである。うれしいことにも涙、つらいことにも涙で、善悪に涙は共通するものである。  

かの千人の阿羅漢が仏の入滅後に集まって、仏のことを思い出しながら涙を流しつつ文殊師利菩薩は、妙法蓮華経と唱えられると、千人の阿羅漢の中の一人であった阿難尊者は、泣きながら「私はこのように聞いた」と答えられた。他の九百九十九人も泣きながら涙を硯の水として、また「私はこのように聞いた」と記したうえに、妙法蓮華経と書き付けられたのである。いま日蓮もそのように涙を流しているのである。  

このような身の上となったのも、妙法蓮華経の五字七字の題目を弘めたからである。釈迦仏と多宝仏が、未来の日本国の一切衆生を仏にさせるために、留めおかれたところの妙法蓮華経であると、日蓮も聞いていたからである。  

現在の大難を思いながらも涙、未来の成仏を思って喜ぶにも涙がとめどもない状態である。鳥と虫とは鳴いても涙を落とさないけれど、日蓮は泣かないが涙は乾く暇もないほどである。

この涙は世間一般の私情で流しているのではなく、ただひとえに法華経のためであるから甘露の涙ともいえるであろう。涅槃経には、父母.兄弟.妻子.眷属と別れを惜しんで流す涙は、四大海の水よりも多いといえるが、仏法のためには一滴の涙もこぼさない」とある。  

法華経の行者となることは、過去からの永い因縁によるものである。同じ草木であっても、仏像として造られていくものは、やはり永い因縁による。仏であっても実仏ではなく権仏(仮の仏)として造られていくことも、またすべて過去世からの永い因縁によるものなのである。こ  

の文章の中には日蓮にとって大事な法門を書いておいたので、よく充分に読んで理解してほしい。特に一閻浮提(いちえんぶだい)第一の最も優れた御本尊を信仰して、真剣に心の底から信心を強く盛んにし、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏のご守護が頂けるよう心がける事が大切である。  

またさらに修行と学問の二道を怠らず励むことが肝心である。この行と学の二道が絶えるようなことがあれば、仏法は滅亡してしまう。まず自分自身がこの二道を励み、得たことはただちに他の人々に教えていくべきである。そしてこの行学の二道は、信心から起こり始まっていくのである。  

 もしも自分に力があったならば、たとえ一文一句であっても、他に向かって語り伝えていくべきである。
 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐れながら謹んで申し上げる。  

五月十七日  

日蓮花押  

  

追加して申し上げるが、日蓮が受けついだ法門等については、前々から書いてお知らせした通りである。しかしこの文章は特に大事なことを記しておいた。不思議な過去からの契約によるものであろうか。あるいは涌出品に書かれている六万恒沙の上首である上行等の四菩薩が形をかえて現われたのであろうか。きっと深いわけがあるにちがいないであろう。すべて日蓮の身に当たっての法門を貴方におわたしした。  

日蓮はもしかすると涌出品に説かれている六万恒沙の地涌の菩薩の使者であるかもしれない。それは南無妙法蓮華経と唱えながら、日本国中の男女を導こうとしているからである。涌出品の中に「一人は上行菩薩と名づく、乃至この人は唱導の師である」と説かれているではないか。  

あなたはまことに宿縁が深い人で、私の弟子となったわけであるが、この文章は充分に注意して大事にして頂きたい。それは日蓮がすでに証したところの法門を書き付けであるからである。ではこれで筆を欄くことにしよう  

最蓮房御返事  

―日蓮聖人全集―

前頁に戻る