祈 祷 抄(きとうしょう)
お尋ねするが、華厳宗・法相宗・三論宗、それに倶舎・成実・律といった小乗の三宗と真言宗・天台宗といった諸宗が祈祷をおこなった場合、どの宗の祈祷がもっとも霊験を現わすであろうか。
お答えしよう、どの宗の祈祷も一応は仏説にもとづいているので祈祷ということができるが、しかし法華経によっておこなう祈祷こそがまことの祈祷であり、必ず祈祷も成就するであろう。
重ねてお尋ねするが、それはどうしてであろうか。
お答えしよう、そのわけはまず声聞・縁覚の二乗についてみるに、この人たちは大地を微塵にくだいた数よりもさらに多くの年数を修行したとしても、法華経以前の四味の諸経では、成仏することができないでいる。ところが法華経ではほんのわずかな間に仏になることができたのである。したがって、舎利弗や迦葉等の千二百人、あるいは一万二千人をはじめ、すべての二乗界にありながら仏になれたものたちは、法華経の行者の祈りを必ず叶えさせるべきである。また行者の苦しみをも代わってやるべきである。
ゆえに信解品には、「世尊は大恩のあるかたである。これまでにさまざまな不思議な力をもって、われら衆生をあわれみ教化して利益を与えられた。この大恩には無量億の永年にわたっても、だれも報いることはできないであろう。手や足でお仕えしても、頭を下げて敬礼しすべての物を供養し尊敬しても、この大恩に報いることはできない。あるいは仏の両足を自分の掌にのせて拝伏し、両肩に背負って無量の永い間にわたり、心を尽くして恭敬し、また美味の料理やすばらしい着物や、そのほか上等の調度品や医薬品等を数多く供養し、さらに名香の栴檀や珍しい宝物をもって塔廟を建立し、宝を散りばめた衣を大地に敷いて供養することが永い間に及んでも、とうてい仏の恩に報いることは不可能なことである」と説かれている。
この経文は四大声聞が譬喩品を聞いて仏になれるということを知り、仏と法華経の恩の報じがたいことを説いたものである。だから二乗の人人のためには、この法華経を修行し受持する者は、父母よりも、愛しい子よりも、両眼よりも、さらに命よりも大事に考えられたことであろう。
舎利弗や目連等の諸大声聞は、仏一代の聖教についてどれでも讃歎する行者を見捨てるようなことはないと思うが、法華経以前に説かれた諸経の場合は、少し恨みをおぼえていることであろう。そのわけは諸経の中では二乗のことを、「仏法の中においては、すでに二乗の者は仏になるべき種子をくさらせてしまっている」などと強く成仏を否定されてしまっているからである。
ところが今、法華経において舎利弗は華光如来、須菩提は名相如来、その他の千二百の声聞衆は普明如来等と仏に成られたことは、思いもしなかった幸せである。例えば崑崙山が崩れて宝の山へ入ることが出来たような心持ちであったことだろう。だから二乗の人たちの領解した文の中に「このうえない宝の珠を求めずして、おのずと得ることができた」といっている。したがってすべての二乗界の者は、法華経の行者を守ることは疑いのないことである。
卑しい畜生などでさえも受けた恩を忘れずに報いようとするものである。雁という鳥は、必ず母鳥が死にそうになったとき孝養をおこなう。また狐も死ぬときは自分の塚に背を向けないという。畜生でさえもこのように恩を忘れないのである。まして人間が恩を忘れてもよいといえるであろうか。
それゆえに王寿という人は旅をしていて、飢え疲れてしまったので、路のわきに梅の木があり、実がたくさんついていたので、王寿はこれを食べて飢えをいやした。そこで彼は「私はこの梅の実を食べたおかげで気力を増すことができた。その恩を報じなくてはならない」といって、着ていた着物をぬいで、その梅の木に掛けてやって去って行ったという。
また王伊という人は、道を歩いていて喉がかわき困っていたところ、ちようど川に出たので、その水をのみ渇をいやすことができたが、立ち去る時に川へ銭を入れてその代金としたという。
さらに竜は必ず袈裟をかけた僧を守るといわれている。それは昔仏から袈裟をいただいて、これを竜宮城の愛しいわが子にかけさせ、おかげで金翅鳥に食われそうになった難をまぬがれることができたからである。金翅鳥は必ず父母に孝養する者を守る。その理由は竜は須弥山を動かして金翅鳥の愛しい子をたべてしまうので、金翅鳥は、仏の教えによって父母に孝養するものが僧を供養するために捧げる生飯(さんば)の残りを須弥山の頂上に置いて、竜の難からまぬがれることができたからである。
天は必ず戒律をたもち善事をおこなう人を守るが、人間界に戒律をたもち善事をおこなう者がいないので、人間界の人は死んでから多くの者は修羅道に落ちることになる。修羅道の者が多くなると、その勢力に乗して、必ず天上界を侵すことになる。人間界に戒律をたもち善事をおこなう者が多い場合は、人が死んだあと必ず天上界に生まれ、天上界が多くなれば、修羅は天上界をおそれてこれを侵すことをしない。だから戒律をたもち善事をおこなう者を、天は必ず守るのである。ましてや二乗は六道の者たちよりも威徳も優れており、智慧も賢い人々ばかりである。どうして自分が成仏することのできた法華経を修行する人を見捨てたりなどすることがあろうか。
またすべての菩薩ならびに凡夫は仏に成ろうと思って、仏が四十余年の間に説かれた経々を無量の永きにわたって修行したけれども、ついに仏になることはできなかった。それなのに今、法華経を修行したことにより、ただちに仏になることができて、十方の世界におられる。
また諸仏が三十二相や八十種好といった荘厳な姿を備えて、九界の衆生から拝まれて月の回りを星がめぐるように、須弥山を八つの山がめぐらしているように、太陽を東西南北の四州の衆生が仰ぐように、転輪聖王を万民が仰ぐように、みんなで仰ぎ見られていることは、ひとえに法華経の恩徳によるものというべきではないか。
だから仏は法華経の法師品の中で、「この法華経を安置し仰ぎ見て供養するところには、また特別に仏の舎利を安置しなくともよろしい」と衆生を戒しめている。涅槃経では「諸仏の師とするところは、すなわち法である。ゆえに如来は法を恭敬し供養するのである」とも説かれている。また法華経では、仏が「わが舎利を法華経と並べてはいけない」と説き、涅槃経では「諸仏は法華経を恭敬し供養すべきである」と説かれている。
仏はこの法華経を悟って仏になられたのである。しかもその法華経を他の人々に説き聞かせることをしなかったならば、仏になるべき種子を途中で断絶してしまう、という過失を犯してしまうことになるのである。そこで釈迦如来は、この娑婆世界に出生されて、法華経を説こうとされたところ、元品の無明という第六天の魔王がこれに反対して、一切衆生の身体の中に入りこみ、仏を仇のごとくに思わせて、説くことを妨害しようとしたのである。
すなわち波瑠璃王が五百人もの駅子の一族を殺し、鴛堀摩羅が仏を追いかけて危害を加えようとしたり、提婆が大石を放って仏を傷付けたり旃遮婆羅門の女が鉢を腹に伏せて仏の御子を身ごもったといいふらして悪宣伝をおこない、婆羅門城の王が、もし仏を城内に入れた者がいたら五百両の罰金を取るといったので、城内の人々は道路にトゲの出たバラを立てて歩けないようにし、井戸には糞を入れて飲めないようにしたり門には逆木を置いて入らないようにし、さらに食物には毒を入れて、仏の通行を妨害した。これらのことはすべて魔王が仏を憎んでやらせたことである。また仏の弟子であった華色比丘尼を殺したのも、目連が竹杖外道に殺害されたのも、迦留陀夷が馬糞の中へ埋められたのも、みな仏を憎んでのしわざであった。
しかし仏はさまざまな難をまぬがれて、御年七十二歳のとき、仏法を説き始めてから四十二年目に、中インドの王舎城から北東の方向にある耆闍崛山という山で法華経を説き始められてから八年間をへて、東インドの倶尸那城跋提河のほとりで、御年八十歳の二月十五日夜半に、御涅槃に入られたのである。
しかしながらその仏のお悟りの内容は、法華経にすべて説かれていると示されているので、法華経の文字はすなわち釈迦如来の御魂である。一字一字の経文は仏の御魂であるので、この経を修行する人を釈迦如来はわが御眼のように大切に守ってくださるのである。ちょうど人の身体に影が添って離れないように、守ってくださるであろう。
だからどうして祈りが成就しないことがあろう。またすべての菩薩は、始めの華厳経から四十余年間にわたって、仏になろうと願って努力してきたが果すことができず、法華経の方便品において略開三顕一の説法をされたとき、「仏になろうとするもろもろの菩薩と八万の人々、また万億という数の国の転輸聖王が、仏に対して合掌し、敬いの心をもって、具足の道をお聞き」たい」と願い出た。そこで仏はさらに広く開三顕一の法門を説かれたのである。「菩薩たちはこの法門を聞いて、みな疑問に思っていたことがことごとく理解できた」と説かれているのである。
その後、この国土や他方の国土から、続々と菩薩が雲のように集まり、星の数のごとく列席した。すなわち宝塔品のとき、十方の諸仏が各自無辺の菩薩をしたがえて集合された。提婆品のときは文殊菩薩が海中より無量の菩薩をしたがえて現われ、勧持品の時は八十万億那由陀の諸菩薩が、さらに涌出品では八恒河沙に過ぎた菩薩と、大地から涌出した千界を微塵にした数ほどの菩薩、分別功徳品では六百八十万億那由陀恒河沙の菩薩、またその千倍の菩薩、一世界を微塵にしたほどの数の菩薩、三千大千世界を微塵にしたほどの数の菩薩、また二千の中国土を微塵の数にしたほどの菩薩、小千国土を微塵にしたほどの数の菩薩、さらに四つの四天下・三つの四天下・二つの四天下・一つの四天下をそれぞれ微塵にしたほどの菩薩、また八世界を微塵にしたほどの数の衆生、さらに薬王品の八万四千の菩薩、妙音品の八万四千の菩薩、また四万二千の天子、普門品の八万四千人、陀羅尼品の六万八千人、妙荘厳正品の八万四千人、勧発品の恒河沙等の菩薩、三千大千世界微塵数等の菩薩、これらの菩薩を詳しく数えれば、十方世界を微塵にした数ほどであり、十方世界の草木のごとくである。また十方世界の星の数のごとくであり、雨のつぶのごとくである。これらの数えきれないほどの菩薩は、みな法華経によって仏になられたのであり、この三千大千世界の地上や地下、さらに虚空の中におられるのである。
すなわち迦葉尊者は鶏足山におられ、文殊師利は清涼山に、地蔵菩薩は伽羅陀山に、観音は補陀落山に、弥勒菩薩は兜率天に、難陀等の無量の竜王や阿修羅王は海底か海畔にあり、帝釈は?利天に、楚王は有頂天に、そして摩醯修羅は第六の他化天に、四天王は須弥山の中腹に、日月衆星はわれらの眼で見ることができるように、天空の頂上にあってあたりを照らしておられる。そのうえさらに江神も河神も山神等も、みな法華経を説法された会座の諸尊である。
仏が法華経をお説きになられて、二千二百年余りも経過しているが、人間は寿命が短いので、仏を実際に見ることのできた人はすでにこの世にはいないが、天上界では日数も永く寿命も長いので、法華経を聴聞した天人は数かぎりなくおられる。
人間の五十年は四天王の一日一夜にあたる。したがってこの一日一夜をもととして三十日で一か月、十二か月で一年となり、五百歳の寿命があるから人間の二千二百年余りの年月は四天王の四十四日に相当する。だから日月ならびに毘沙門天王は、仏におくれていること四十四日であって、まだ仏が入滅されてから二か月もたっていないことになる。帝釈や梵天などは仏の入滅後まだ一月か一時しかすぎていないことになる。
このようなわずかな間に、どうして仏の前でのお誓いや、ならびに自分が成仏することのできたお経のご恩を忘れて、法華経の行者を捨ててかえりみない等ということが出来えようか、などと思いつづけると頼もしいことである。
したがって、法華経の行者の祈る祈りは、響きの音に応し、影の体に添うように、また澄んだ水に月がうつるように、水の精が水を招きよせるように、磁石が鉄を吸い付けるように、また琥珀が塵をとるように、明鏡があらゆる物の色をうつし出すようなものであり、祈りは必ず成就されるのである。
一般世間の法においても、自分が考えていないことであっても、父母・主君・師匠・妻子ならびに親しい友達などから依頼されたことには、恥を知る者ならば、わが心に合わないことであっても、名誉や利益を失うようなことになっても、さらに命に及ぶようなことであっても、実行するのである。ましてやわが心から良いことなので実行しようと決めて行なうことは、たとえ父母・主君・師匠などの制止や妨害にあったとしても、断行することがある。
たとえば中国の范於期という賢人は、約束を守ってわが頸を切り、荊軻という人に与えた。また季札という人は約束した剣を徐の君の墓にかけたという物語があるほどである。
このように一般世間のことでも、一度決めたことは必ず守ることになっている。ましてや仏道においてはなおさらのことである。
すなわち霊山の法華の会座において即身成仏することが決まった竜女は、たとえ小乗の経典で、五つの障があり、三つの従うべきことがあって、強く嫌われ、また法華以前に説かれた諸経では、女は永い間の修行には耐えられないからといって捨てられ、あるいは華厳経で「最初に菩提心をおこしたとき、すなわち正覚を成することができる」と説かれたものの、名だけあって実際には成仏ができなかったので、女人が仏になることは許されていないのであった。
たとえ人間界や天上界の女人であっても成仏することの望みはありえなかったのに、竜という畜生界動物の女として生まれ、年齢もわずかに八歳という。まったく成仏は思いもよらないことだったのに、文殊菩薩の教化を受け、海中において法華経を聞き、仏が法師品と提婆品の中間に説かれた宝塔品の時刻において仏になられたことは、いまだかつてない有り難い事であった。仏一代の中で諸経に越えた法華経の御力でなければ、どうしてもかなうことのできないことである。
だから妙楽大師はこの竜女成仏について、「修行は浅くして功徳は深く、もって経力を顕わす」と書かれている。竜女は自分が仏になることのできたお経なのだから、仏の命令がなくても、どうして法華経の行者を見捨てるようなことができようか、そのようなことは決してできないであろう。だからみずから仏を讃歎した偈文の中に、「われは大乗の教えをひらいて苦しみの衆生を救いましょう」といわれているのである。
この竜女の誓いはただちにその従っている他のすべての竜畜の誓いであって、言葉や心で測ることのできない深いものである。竜女の父である娑竭羅竜王は、竜畜の身であるが子を思う志が深かったので、大海の中で第一の宝である如意宝珠を娘に与えて、即身成仏のための御布施とされたのである。この珠は価値が三千大世界のすべての物に相当するほどの珠である。
提婆達多(だいばだった)は師子煩?王の孫であり、釈迦如来には伯父である斛飯王の御子で、かの阿難尊者の兄にあたる。善聞長者の娘の子であり、転輪聖王のご一門であってこの南閻浮提の中では身分の賤しくない人物である。
在家にいた時は、夫妻となるべきはずであった耶輸多罪女を悉達太子に取られてしまい宿世の敵と思い込んでいたが、出家のあとは人間や天人の多数集まった席上、仏から「お前は痴人で他人の唾を食べた者」とののしられたうえに、人一倍名誉や欲望の深い人だったので、仏が他の人人から手厚くもてなされているのを見て、ねたみそねみの心が湧きでてきた。
そしてわが身に五つの修行を積み、仏よりも尊げなふるまいをし、鉄をのばして足の裏に千輻輪(せんぷくりん)という仏の三十二相の一つである福相を焼き付け、さらに蛍を集めて眉間の白毫相のように見せかけ、六万宝蔵や八万宝蔵といわれる仏教を自分の説のごとくに説き、象頭山には戒場をこしらえて、多くの仏弟子たちを誘い取り、さらに爪に毒を塗って仏の御足に塗り込めようと考えたりした。そのうえ、蓮華比丘尼を打ち殺し、大石をなげて仏の足の指から血を流させたりしたのである。
こうして三逆罪、すなわち仏の身から血を出させ、僧団の和合を乱し、仏弟子を殺してしまったのである。結局は全インドの悪人を集めて、仏やその弟子および檀信徒にまで被害をおよぼしたのであった。
ときに仏の第一番の檀信徒であった頻婆娑羅王は、一日に五百輌の車にご供養の品物を積んで仏に奉っていたが、これを見た提婆はそねむ心が深く起こり、阿闍世太子をそそのかし、父王をついに一尺の釘七本で、張りつけにしてしまったのである。
こうした悪事を重ねたので、ついに王舎城の北門の大地が破れて阿鼻地獄に落ちてしまった。三千大千世界の人々は一人のこらずこの様子を見て知っている。だから大地を微塵にしたほどの永い年月を過ぎても、無間地獄の大城から出ることはできないであろうと思っていたのに、法華経において天王如来となられたことは、まことにもって不思議に尊いことである。
提婆達多が仏にならなかったとしたら、誘われて悪の道へ入った数多くの悪人たちも、同じ悪の仲間同志なので、みな無間地獄の苦しみを離れることはできないであろう。悪人の仲間もともに仏になれることになったのもひとえに法華経のおかげである。だから提婆達多とそれに付き従った数多くの眷属たちは、その法華経の行者の住む家に居られて守護することであろうと、頼もしく思う次第である。
大地を微塵にしたほどの数多くの諸菩薩らは、無量の煩悩を攻め破って仏の次の位にまで昇り、最後の一番もとになる無明という煩悩だけを残しているが、釈迦如来にお会いして、この元品の無明という大石を割ってしまおうとしたのだが、教主釈尊は始めの四十余年の間は、因位の修行方法については説かれているが、証果の法門についてはお説きになっておられないので、妙覚という悟りの功徳はまだ説きあらわされていない。したがって妙覚の位に登る人は一人もいなかったのである。これは本意のないことであった。
しかるに霊鷲山で八年にわたり、仏は法華一仏乗をお説きになり、諸菩薩はみな妙覚の位に到達して、釈迦如来と悟りが等しくなった。ちょうど須弥山の頂に登って四方を眺めたように、長い夜が明けて太陽が出たように、すべてが明るくなったのであるから、仏のお言葉がなくとも、法華経を弘めないようにしようとか、または行者の苦難を替わってやることをしないでいようなどとは、思わないであろう。だから「私は身命に愛着せず、ただ一つ無上の道である妙法を惜しみ守ります」といい、「自分の身命を惜しまず、ひたすらこの法華経を広く説くことにつとめます」と誓願を立てられたのであった。
そのうえ、慈父の釈迦仏・悲母の多宝仏、及び慈悲の父母とひとしく法華の真実たることの証明を助けた十方の諸仏が、一座につらなって月や日を集め並べたように明るく輝やく時、仏がその場の大衆に向かって、「私が滅度したのちに、だれかよくこの法華経を護持し読誦して弘める者はいないか。今仏前においてみずから誓いの言葉をのべてみよ」(宝塔品)と三度もおっしゃった。
そのとき八方の四百万億那由陀もの国土に充満していたもろもろの大菩薩たちは、身を曲げ頭を下げて合掌し、ともに同時に声をあげて、「世尊のおっしゃった通りに、私どもは一所懸命に実行いたします」(嘱累品)と三回にわたって声も惜しまずお答えしたのだから、どうして法華経の行者の苦難に替わってやることができないでおられようか。
中国の范於期という人は荊輌軻という人に自分の頭をとらせ、また季札という人は徐君の塚に刀をかけて、それぞれに約束を果たしている。これらは中国における辺境の身分の低い人々であるが、それでさえもきちんと友人との約束を命がけで守り、身にかえても実行した人たちである。
ましてやもろもろの大菩薩といわれる人々は、本来より大悲の心を持って人々の苦難に替わってやるべき誓いを立てた人たちである。仏からのご命令がなくとも、どうして法華経の行者を見捨てるようなことができようか。そのうえ、自分たちが成仏することのできた経であり、仏からはおごそかにご命令が下されているので、仏前での御誓いはていねいなものであった。したがって法華経の行者を助け守ることは疑いのないところである。
仏は人間界や天上界の主君であって、一切衆生の父母にあたる。しかも悟りへの道を切り開き導いてくださった師匠である。たとえ父母であっても、根性のいやしい父母は主君としての徳義を備えていない。また主君ではあっても父母として親の徳を欠いていると、恐ろしく親しめない。さらに父母や主君の徳は備えていても、師匠としての徳を持っていない者もある。諸仏はまた世尊であるから主君ではあるが、この娑婆世界に出現されないので師匠ではない。また「その中の衆生はことごとく、これわが子なり」とも名乗っていない。ただひとり釈迦仏だけが主・師・親の三義を兼ね備えているのである。
しかしながら、成道してから四十余年間は、提婆達多をののしり、もろもろの声聞をそしり、菩薩の果分たる仏の法門を惜しんで説かなかったので、仏ではあるけれども、ときに天魔や仏道を妨げて人心を乱す者たちが仏の身にとりついてわれらを悩ますのかと疑う人々も出始め、口に出しては言わないまでも、心の中で思う者もいた。こうした思いは四十余年間続き、法華経が説かれるまでつきまとったのである。
しかるに霊鷲山における八年間の法華の会座で、宝塔が虚空に現われ、釈迦・多宝の二仏が日月のように並び、諸仏は大地につらなり、大山を集めたように大地から湧き出た数多くの菩薩たちが、虚空に星のごとくつらなりたもうたのである。その前で仏は諸仏が悟りを得ることのできた功徳のこもった法門をお説きになられたのである。
ちょうど宝蔵を開いて貴人に宝を与えたように、また崑崙山が崩れて宝が現われ、人々はこの玉だけを拾って大いに嬉しがったように、この八年の間、珍しく貴いことを心髄にまで深く感しとったのである。もろもろの菩薩たちは身命を惜しまず、言葉も飾らず素直に誓願を立てたので、属累品で釈迦如来は宝塔から出られ扉を閉められたので、集まってこられた諸仏もみなそれぞれの国土へお帰りになられたのである。
さて、みんなが帰り心細くなった頃、仏は「これより三か月後に、私は涅槃に入るであろう」といわれて、一同を驚かせた。二乗や人間・天上界のことごとくの者が、法華経を聴聞して仏になれることを聞き、仏の恩徳を肝に銘じてありがたく思い、身命を投げ出しても法華経のために尽くし、仏にも見ていただこうと思ったのに、仏のいわれるごとくもしも涅槃に入られたならば、どのようにか淋しく悲しいことであろうと胸さわぎがしていたときに、仏の御年満八十歳という年の二月十五日の朝、東インドの舎衛国倶戸那域にある跋提河のほとりにおいて、仏がご入減なされるという知らせが、上は有頂天から横には三千大千世界にまで響きわたり、人々は目もくらみ心も消えうせる思いであったろう。
全インドの十六の大国・五百の中国・十千の小国・数えきれないほどの粟散国(ぞくさんこく)等の衆生は、悲しみのあまり一人も衣食をとらず、上下の区別もなく、人間ばかりではなく牛馬や狼・狗・G鷲(たか・わし)・??(か・あぶ)などに至るまで、五十二類の一類の数が大地を微塵にしたほどの数もあり、そのすべてが集まって、それぞれに供華やお香・衣食等をお供えし、最後のご供養としてさしあげた。
「一切衆生の宝の橋と頼む仏が折れようとしている。一切衆生の眼にあたる仏が抜けようとしている。一切衆生の父母であり主君であり師匠である仏が死のうとしている」という声が響きわたると、身の毛も立ってみな涙を流した。涙を流しただけでなく、頭をたたき胸を押さえ、声も惜しまずに泣き叫び、血の涙や血の汗が倶尸那城に大雨よりも激しく降り、大河よりも多量に流れ出したのであった。これはひとえに法華経によって仏にたれたのであるが、その大恩に報ずることができなかったためである。
このような嘆きの場所においてさえも、法華経の敵がいたならば、その舌を切るといって、座につらなっている人同志が叫び合っていた。また迦葉童子菩薩は「法華経に敵する国があったならば、自分は霜雹となってこらしめてやる」と誓いを立てた。
そのとき仏は横になっていた身体を起こしてよろこばれ、「よいかな、よいかな」とおほめになられた。もろもろの菩薩がたも仏の御心を推しはかって、私たちも法華経に敵対する者を討ちますと申し上げると、仏はしばらくの間でも生きのびられることであろうと思い、一人一人がお誓いを立てられた。
したがって諸菩薩やもろもろの天人らは、みな法華経の敵が出現したときは、この仏前でのお誓いをはたして、釈尊を始め多宝仏や諸仏如来に、まことに仏前で誓約したとおり、法華経の御ためには名も身命も惜しまなかった者たちであると思われるようにしたいと考えられていることであろう。このようにいうことは守護の験が遅いからである。
たとえば大地を指してはずれることがあっても、虚空をつないで結ぶことができたとしても、大海の潮が満ちたり干き潮にならぬことがあったとしても、また日が逆に西から昇るようなことがあったとしても、法華経の行者の祈りが叶わぬということはありえないことである。
万一法華経の行者をもろもろの菩薩や人天・八部等、二聖・二天・十羅刹女等が、千のうち一つでも守らないことがあったならば、上は釈迦諸仏を始めとして、下は九界をだました罪を犯すことになる。
法華経の行者はたとえ不実であったとしても、智慧はおろかであっても、また不浄の身であったとしても、さらに戒徳は備えていないにしても、南無妙法蓮華経と唱えたならば、必ず守護し給うべきである。
たとえば袋がきたないからといって中の金を捨てるようなことをしないのと同様である。また伊蘭の臭いを嫌っていては栴檀の香りをうることができないように、あるいは谷の濁った池を不浄であるといやがっていては蓮を採ることができないのと同様である。法華経の行者を嫌うようなことがあれば、仏前でり誓いを破ることになる。
現代は正法・像法の二時代はすでに過ぎ去っているので、戒律をたもつ者はなく、市中で虎をさがすようなものである。また麒麟の角を求めるのと同しでまったく困難なことである。月が出るまでは燈火を頼りとするように、宝珠のないところでは金銀も宝として尊重されるのと同様である。
昔、白鳥に恩を受けた人が黒鳥に恩がえしをしたように、今の世にあっては聖僧から受けた恩を凡僧にかえすべきである。すみやかに利益を現わしたまえと強く申すならば、どうして祈りのかなわぬことがあるであろうか。
お尋ねするが、これまでに書かれた道理や文証を拝見して見ると、実際に日や月が天に輝き、大地に草木が生い茂り、昼夜が国土に存在し、大地がひっくり返ったりせずに、大海の潮がいつもの通り満ちたり干いたりしているならば、法華経を信ずる人の祈りが現世に叶い後生善処に生まれることは疑いのないものとわかった。
しかし、この二十余年間、天台宗や真言宗の名僧や学匠が数多くの祈祷を行なったけれども、はかばかしくなく効果も上がっていない。それどころか仏教以外の外典を信仰している者よりも劣っているように見えるのである。
これは一体どうしたことなのか。恐らくは経文が嘘であるのか、または行者の行ないが間違っているのか、あるいは時機が適切でないのかと疑問に思えて、後生のこともおぼつかないことである。
それはさておき、御房は比叡山で修行を積まれたお弟子だと承わっている。父の罪は子にかかわり、師匠の罪は弟子にかかわると聞いている。比叡山の僧らが薗城寺の山門・堂塔・仏像・経巻数千万巻を焼き払ってしまったことは、実に恐ろしいことであり、世間の人々もこのことを騒ぎ立て、比叡山の僧たちを疎略に思うようになった事についてどのように思うか。
今までにも少々承ったが、今一度くわしくお聞きしたいと思う。ただし不思議に思うことは、このような悪僧たちなので仏法僧の三宝の御意にも合致せず、天地の神にも叶わず、ましてや祈祷も叶うことはないと思われるが、いかがなものか。
お答えしよう。前にも少しお話ししたけれども、今ここでまた改めて申し上げよう。わが日本の国においてこのことは大切なことである。この事を知らないため多くの人々は、口に様々な罪業をつくるのである。
まず山門すなわち比叡山延暦寺が創建されたのは、わが国に仏法が伝来されてから二百余年たった桓武天皇の御宇に、伝教大師が立て始められたのである。その当時の京都は、昔、聖徳太子が王たる者の都とすべき所であると申されたが、天台宗の渡ってくるのを待っておられ、それまでは都と定められなかったのである。
また聖徳太子の記された御文に、「我が滅後二百余年に仏法は日本に弘まるであろう」とあり、その通りに伝教大師は、延暦年中に比叡山延暦寺を建てられた。また桓武天皇は京都の平安に都を定められたのである。太子の記文に間違いがなかったからでである。
だから比叡山と京都の王家とは松と栢のごとくであり、蘭と芝との関係である。すなわち松が枯れると必ず栢も枯れ、蘭がしぼめばまた芝もしぼむのである。王法が栄えれば比叡山も喜び、王位が衰えれば比叡山も嘆くことになる。
このような関係にありながら、すでに世間は関東になびき王法は衰えてしまっている。この点を朝廷ではどのように思われたのだろうか。
ところで真言宗の秘法を修した四十一人の行者が、承久三年(1221)辛巳四月十九日に京都と関東とで争いが起きたとき、関東の北条氏を降伏させるために、隠岐の法皇(後鳥羽上皇)の宣旨によって初めて十五壇の秘法を実施したのである。
その十五壇の秘法というのは
一字金輪法〈天台座主慈円僧正が、伴僧十二名とともに修したもので、関白殿基通の御沙汰によって行ったものである〉
四天王法〈成興寺の宮僧正が、伴僧八人と広瀬殿において修したもので、修明門院の御沙汰でおこなったものである〉
不動明王法〈成宝僧正が、伴僧八人とともにおこなったもので、花山院禅門の御沙汰によるものでおる〉
大威徳法〈観厳僧正が、伴僧八人とともに実施したものでおり、七条院の御沙汰によるものである〉
転輸聖王法〈成賢僧正が、伴僧八人とともに実施したものであり、同院の御沙汰によるものである〉
十壇大威徳法〈伴僧六人で、覚朝僧正、俊性法印、永信法印、豪円法印、猷円僧都、慈賢僧正、賢乗僧都、仙尊僧都、行遍僧都、実覚法眼の以上十人が、おおむね本坊において修した〉
如意輸法〈妙高院僧正が、伴僧八人で実施したものであり、宜秋門院の御沙汰によっておこなった〉
毘沙門法〈常住院僧正が三井で伴僧六人とともにおこなったもので、資賃の御沙汰によっておこなった〉
御本尊を一日の中に造一て実施した調伏のための行儀は、
如法愛染王法〈仁和寺御室の行法で、五月三日から二週間にわたって、紫宸殿でおこたわれたものである〉
仏眼法〈大政僧正が、三週間にわたって修したものである〉
六字法〈快雅僧都が惨したもの〉
愛染王法〈観厳僧正が、七日にわたって修したもの〉
不動法〈勧修寺の僧正が、伴僧八人とともにおこなつた。皆僧綱という位を持ったものであった〉
大威徳法〈安芸僧正が修したもの〉
金剛童子法〈同人がおこなったもの〉
以上の十五壇法を実施したが、五月十五日に京都守護の伊賀太郎判官光季が京都で討たれた。このことが同十九日に鎌倉に伝えられた。そこで同二十一日に幕府の大軍が京都へ攻め上ると報道されたので、残ったところの修法を六月八日から実施された。すなわち、
尊星王法〈覚朝僧正によって実施された〉
太元法〈蔵有僧都によって実施された〉
五壇法〈大政僧正、永信法印、全尊僧都、猷円僧都、行遍僧都らによっておこなわれた〉
守護経法〈御室がおこなわれ、日本では二度実施されたことになる〉
こうした修法を実施したが、五月二十一日も武蔵守殿は東海道から京都に上り、甲斐源氏は東山道を上った。また式部北条朝時殿は北陸道から上られた。かくして六月五日には大津を守っていた武士たちが、甲斐源氏によって破られてしまった。同じく六月十三日と十四日は宇治橋の合戦が始まり、同十四日に京都方は関東軍に破られてしまった。そして同十五日には武蔵守殿は六条へ入られ、諸人も続いて入られた。
七月十一日には本院(後鳥羽上皇)はもったいなくも隠岐の国へ流され、中院(土御門上皇)は阿波国へ流され、第三院(順徳上皇)は佐渡国へ流されたのである。そして殿上人七人は死罪に処せられてしまったのである。
このように祈願してもかえって逆の効果をもたらした大悪法が、年とともに次第に関東へも弘まり、諸堂の別当や供養僧らにより、帰依を得ていつまでも続けられた。人々はもとより教法の邪正勝劣を少しも弁えておらず、ただ仏法僧の三宝を崇め尊ぶことだとばかり思い込んでしまっていたので、何の疑間も感じずにこの悪法を信用してしまっていた。
関東の国々だけではなく、比叡山も東寺も薗城寺でも座主や別当が、みな関東の支配下となったので、かの悪法の檀那信徒となってしまったのである。
お尋ねするが、真言の教えを強いて邪教というのはどうしてか。
お答えしよう、弘法大師は「第一に優れた教えは大日経、第二は華厳経、第三は法華経である」といっているが、よくこの順序を考えてみる必要がある。
いったい仏はどの経典にこの三部の経の勝劣を判定されているか。もしも第一大日経、第二華厳経、第三法華経と説かれた経典があるならば、成る程とも思うが、その経がないならば、弘法大師の説は、はなはだもって信用できないものである。
法華経には「薬王よ、我が説くところの諸経の中で、この法華経が最も優れた第一の教えである」と法師品に記されている。仏はまさしく諸教との対比のうえで、法華経を第一と説かれておられる。
仏の説法と弘法大師の書かれたものとでは、水と火のようにまったく違っている。これはよく尋ねて究むべきことである。この数百年の間、弘法大師の書かれたものを凡僧も高僧もみなこれを学び信して、貴賎・上下の別なく信仰し、大日経はすべての経の中で第一であると尊び崇めてきたことは、まことにもって仏の意に反することである。心ある人々はよくよくこの道理を考えて、どちらが正しいかを定めるべきである。
もしも仏の心に反しているとしたならば、いくら信仰してみてもとても成仏することはできないであろう。またいくら国土の安穏を祈願してみても、まさに不祥事ばかりが生起して、安穏にはとてもならないことであろう。
また弘法大師は顕密二教論の中で、「中国の大師らは競って最も優れた醍醐味の教えを盗み取った」といっているが、この文章の意とするところは、天台大師らが真言の教えの醍醐味を盗み取って、法華経の醍醐味であると名付けられたことになるが、この事は最も重要なことなので、慎重に考えなくてはならないことである。
そもそも法華経を醍醐味であると名付けたのは、天台大師が涅槃経の文から勘えて、すべての経の中では法華経こそが醍醐であると名付け判定なされたものである。
真言の教えがインドから中国へ渡ってきたのは、天台大師が世に出られて以後、二百余年も後のことであった。したがって二百余年の後に渡ってきた真言の醍醐を盗み取って、法華経の醍醐と名付けられたことになる。この事はまずもって不思議なことといえる。
すなわち真言がいまだ渡ってこない前の二百余年の人々を盗人であると書いた証拠はどこにあるのであろうか。
弘法大師が真言を醍醐であるといったことを信ずべきか、涅槃経に仏が法華経をもって醍醐であると説かれていることを信ずべきであるのか。
もしも天台大師が盗人ならば、涅槃経の文をどのように理解したらよいのであろうか。
また涅槃経の文が真実であって、弘法大師の説が邪義であったとしたら、邪義の教えを信している人々はいったいどういうことになるのであろうか。
ただ弘法大師の説と、仏の説法とを考え合わせてみて、どちらか正義のほうを信じて従っていくべきであると申すのみである。
疑間に思うことがあるが、大日経は大日如来の説法である。もしそうだとしたら、釈尊の説法をもって大日如来の教法を打ち破ることになる。これはすべて道理にかなわぬことであるがどのように思うか。
お答えしよう。大日如来はいったいどのような人を父母として、どのような国に出生され、大日経を説き給えるのか。
もしも父母がなくて出世されたとしたのなら、釈尊入滅以後に弥勒菩薩が世に出られる以前の五十六億七千万歳の中間に、他の仏が出られて説法されるということは、どのような経文に出ているのか、もしも証拠がないとしたら、だれも信しはしないであろう。
このようた非歴史的な、道理に合わないことのみをこしらえて言うから邪教というのである。その間違いは多くて数えきれないほどである。わずかに一、二を例として出してみたにすぎない。
これに加えてさらに禅宗や念仏宗等を用いているが、これらの法門はみないまだ真実をあらわしていない権教であり、不成仏の法門であって、無間地獄の業となるものである。また彼の行者たちは正法たる法華経を誹誘した謗法の者たちであり、どうして祈祷が成就するわけがあろうか。
そもそも一国の主となるということは、過去に正法をたもち、仏にお仕えした功徳によってなれるのである。大小の王はみな梵王・帝釈・日月・四天等の御計らいとして、郡や郷を領有しているのである。すなわち仁王経には、「われ今五眼をもって明らかに三世を見るのに、すべての国王はみな過去の世に、五百の仏に仕えたことにより、帝王主となることができたのである」とある。
それなのに法華経にそむき、真言・禅・念仏等の邪師について、さまざまに善根をおさめてみても、結局は仏の意にかなわず、神慮にも相違する者となる。この点をよくよく考えるべきである。
人間としてこの世に生まれてくることは希のことである。その肴の人生を与えられて、教法の邪正を極め、未来に仏になることを期待することができないとしたら、かえすがえすも残念であり本意とするところではない。
また慈覚大師は唐の国へ入られて帰朝以後、本師である伝教大師にそむいて、比叡山に真言を弘めようとし御祈請されたが、そのおりに夢で太陽を射たところ、太陽が動転したのを見られて吉夢だと思いこみ、周囲の諸人らもまたこれを吉夢であると思って、四百余年の間そのように思い続けてきた。
しかし、これは日本国にとっては大変に忌むべき夢であった。昔、中国の殷の紂王という人は太陽を的として弓を射かけたところ、その身が亡びてしまった。いまこの慈覚大師の夢は権化のことではあるが、よくよく考えなければならないことである。
以上のご如くお尋ねに答えて、九牛の一毛、ほんの一端を記したまでである。
底本:―日蓮聖人全集―