千日尼御前御返事 (せんにちあまごぜごへんじ)
弘安元年(1278)太歳戊寅七月六日、佐渡の国から千日尼という人が、同じ日本国の甲州波木井郷の身延山という深山へ、夫である阿仏房を使者として送ってこられたお手紙の中に、「女性の罪障はいかに深いものかと存じてはおりましたが、お示し下さった御法門によると、法華経は女性の成仏を真先に考えているということなので、これを何よりもの頼みにいたしています」と記されていた。
まず第一に法華経というお経は、どんな仏が説かれたのかと思ってみるのに、この日本国より西の方向、中国よりもさらに西方で、流沙(りゅうしゃ)・葱嶺(そうれい)という所よりもまた遥かに西の方で、月支(がっし)という国があり浄飯王(じょうぼんのう)という大王の太子がおられた。
十九歳のとき、太子の位を捨てられて檀特山(だんどくせん)という山に登り御出家された。三十歳のとき仏になられ、身体は金色に輝き、神(たましい)は過去・現在・未来の三世を見きわめられ、過去のことも未来のことも、鏡に映し出すようにご覧になられた仏が、五十余年の間、一切経といわれる数多くの教えをお説きになられた。この一切の教えは、仏の滅後一千年をへて、インドで次第に広まっていったが、いまだ中国や日本には伝わってこなかった。
仏の滅後一千十五年に中国へ仏法が渡り始めたけれども、まだ法華経は渡ってこなかった。仏法が中国に渡って二百余年後に、インドと中国の中間に亀茲(きじ)という国があった。
その国の中に鳩摩羅炎三蔵(くまらえんさんぞう)という人の子で鳩摩羅什(くまらじゅう)という人がいた。亀茲国からインドに入り、須利耶蘇磨三蔵(しゅりやそまさんぞう)という人からこの法華経を授かった。その授ける時に須利耶蘇磨は、「この法華経は東北の方向にある国に縁が深い」と鳩摩羅什におっしゃった。この言葉によってインドから東方の中国へ法華経を伝えたのである。中国に仏法が伝わって二百余年、後秦王の御代に渡来したのである。
日本国の場合は第二十九代の欽明天皇(きんめいてんのう)の御代であり、十三年壬申(552)十月十三日辛酉に、ここより西方にあたる百済国(くだらこく)という国より、聖明王(せいめいおう)が日本へ仏教を伝えたのである。これは中国に仏教が伝わってから四百年後、仏滅後一千四百余年後のことであった。
その中にも法華経はあったけれども、第三十一代・用明天皇(ようめいてんのう)の太子で聖徳太子(しょうとくたいし)という人が、中国へ使者を出して法華経をとりよせられて、初めて日本の国に法華経が広まっていったのである。それより以来今日まで七百余年たっている。
仏の滅度後すでに二千二百三十余年も過ぎているうえに、インド・中国・日本と国をへだて、さらに山や河や海をいくつも遠く離れて、人々の心や国によって言葉も変わり、風俗習慣もみなちがっているので、どうすれば仏法の御心を正しくわれら凡夫が理解することができようか。
ただ経典の文字を読んでいくしかないが、一切経は数も多く幾種類にも分かれている。しかし法華経はただ八巻である。流通分の普賢径と、序分の無量義経が各一巻ずつあって十巻となる。
この法華経を開いて見ると、明らかな鏡にわが顔を映して見るようにはっきりと見える。日が照って草木の色がはっきりわかるようなものである。まず序分の無量義経を見ると、「四十余年間いまだ真実を顕わしていない」という経文がある。また法華経の第一の巻の方便品の始めには、「世尊は久しくして後に真実の法を説くであろう」とある。同じく第四巻の宝塔品には、「妙法華経は皆これ真実なり」という経文もある。第七巻の神力品には「仏は舌を梵天に至るまで長く示された」(真実の法門であるということの実証)という経文も明白にある。
その他にも薬王品には、法華経以外の前後の経を、月や日や大海・大山・大王等にたとえられている。これは私が勝手に言っているのではなく、すべて如来の述べられた言葉であり、十方の諸仏が相談して決定されたお言葉である。またすべての菩薩や二乗・梵天・帝釈を始め、いま現在天にかかっている日・月もご覧になりお聞きになられたのであり、その日・月のこともこの法華経には記載されているのである。
インド・中国・日本の古くからの神々もみなその座につらなっていた神々であり、わが国の天照太神・八幡大菩薩・熊野・鈴鹿等の神々も、法華経が真実であるという言葉には反対できないのであり、この法華経は他のすべての経よりも優れているのである。例えば地を走るものの王である獅子のごとくであり、空を飛ぶものの王者である鷲のごとくである。
南無阿弥陀仏経等は薙や兎のごとくであり、鷲につかまっては涙を流し、獅子に攻められて腹わたを切られるようなものである。念仏者・律僧・禅僧・真言師らはちょうどこのようなものである。法華経の行者に会うと色を失い魂をうばわれたようになってしまう。
このように貴い法華経というお経は、一体どのような法門が説かれているのかといえば、第一巻の方便品から始まって、菩薩や二乗を始め凡夫のすべてがみな仏に成ることが説かれているが、しかしまだその現実の証拠がない。
例えば初めて来たお客が姿形も立派で心持も良く、言葉も正しくて言っていることも疑間な点は少しもないが、初めて会った人なので本当に言っていることに間違いがないかどうか、事実を確かめたうえでないと、言葉だけでは信じ難いのと同様である。そうした時に言葉通り、大事なことがたびたび事実と合ったならば、その後の事はたのもしく信じることができるものである。
すべて仏の説であるので一応信じてきたが、確証がないので本当に信じきることができなかったが、第五巻の提婆品で、即身成仏という法華一経の中で第一の肝心な法門が説かれ、これではっきりしたのである。例えば黒い漆を雪のように白くしたり、不浄の濁水に清浄な如意宝珠を入れてきれいにしたようなものである。
竜女という小蛇を現身に即して仏になさしめられた。この時こそすべての男子が仏になることを疑う者はいなかったであろう。したがって法華経は女人成仏をお手本として、すべての衆生の成仏が説かれた経典なのである。
それゆえに日本で法華経の正しい理由を説き始めた比叡山の根本である伝教大師は、この事について、「仏に成って法を説いた竜女も、その説法を聞いて仏となった衆生も、ともに永い間の修行を必要とせず、妙法の経力によって即身成仏した」と法華秀句の中に解説している。
中国の天台智者大師は、法華経を正しく解釈された法華文句の中で、「法華経以外の経では、ただ男の成仏については述べられているが、女の成仏については記していない。法華経では男女ともに成仏が説かれている」とある。これらの説は仏一代の聖教の中では法華経が第一に優れた教えであり、その法華経の中では、女人の成仏のことが第一であるといわれているのではなかろうか。もしそうだとしたら、日本中のすべての女性は法華経よりほかのすべての経で、女性は成仏できないといって嫌われても、法華経によって女性の成仏が許されるのであれば、少しも苦しく思うことはないのである。
日蓮はいま受け難い人としての身を受け、そのうえ値い難い仏法に値い奉ることができた。すべての仏法の中でも最も優れた法華経に値うことができた。その恩徳を思えば、父母の恩・国主の恩・すべての衆生の恩である。父母の恩については、慈父を天にたとえ、悲母を大地にたとえて、どちらも分けへだてすることは出来ないが、その中でも特に悲母の大恩はことに報いがたいものがある。
この大恩を報じようと思って仏教以外の儒教による三墳・五典・孝経等によって報じようとしたら、現世の報恩はできても、後生の報恩まではできない。即ち身体を養う事が出来ても、魂を扶けることはできない。
仏法の中に入っても、五千ないし七千余巻もある小乗や大乗の経は、女性の成仏がむずかしいので、悲母の恩に報いることはできない。ことに小乗仏教では女性の成仏は少しも許されていない。大乗経の中にはあるいは成仏、あるいは往生を許したようにみられるけれども、仏の仮の言葉であって、事実ではない。ただ法華経だけが女性の成仏を説き、悲母の恩に報ずることのできる真実の報恩経であると見定めたので、悲母の恩を報ずるために、この経の題日をすべての女人に唱えさせようと願っているのである。
それなのに日本中のすべての女性は、中国の善導や、日本の慧心・永観・法然等にだまされて、頼るべき南無妙法蓮華経を国中の女性は一人も唱える者がいない。ただ南無阿弥陀仏と一日に一返十返、百千万億返ないし三万十万反、一生の間に昼夜にわたって唱え、他の事は一切やっていない。道心のかたい女性も、また悪心を持った女性もともに弥陀念仏を基本としている。わずかに法華経を信仰するような女性もいないわけではないが、例えてみると月が出てくるまでのわずかな待ち時間を、心に思っている男の現われるまで、心では思っていない別な男に会って時間つぶしをするようなものである。
したがって日本中のすべての女性は、法華経の御心にかなった人は一人もいない。わが悲母のために頼るべき法華経を唱えず、弥陀に心をかけていたならば、法華経が本になっていないので、母を助けることもできないのである。弥陀念仏は女性を助ける法ではないから、必ず地獄へ落ちてしまうことになる。
どうしようかと嘆いてみたが、我が悲母を助けるために唱える弥陀念仏は、無間地獄へ落ちるための業因となり、五逆罪を犯したわけでもないのに、五逆罪よりも過ぎた罪となってしまう。なぜなら父母を殺す人はその肉体を傷つけるが、父母の魂にまで傷をつけ後生に無間地獄へ落とし入れることはないからである。
現今の日本国中の女性は、必ず法華経で仏に成れるはずなのに、だまされて、もっぱら南無阿弥陀仏を唱えている。もともとからの悪人ではないので、だまされてしまうのである。仏に成る種子ではないので、いくら唱えても念仏では仏にならない。
弥陀念仏の小善でもって法華経の大善を失うことになる。この場合の小善の念仏は、大悪の五逆罪に過ぎたものとなる。
例えば承平年間(931〜938)に平将門は関東八州を平定し、天喜年間(1053〜1058)の阿部貞任は奥州を打ち平らげて、民と王とを引き離してしまったので、朝敵となりついに減ぼされてしまったようなものである。これらは五逆罪よりも重い謀反の罪である。
現在の日本における仏法もまたこのようなものであり、色形の変わった謀反である。すなわち法華経は大王であり、大日経・観無量寿経・真言宗・浄土宗・禅宗・律僧等は、それぞれの小経によって大王たる法華経の大怨敵となってしまっている。
それなのに日本中のすべての女性は、自分の心の間違っているのを知らないで、自分たちを助けようとしている日蓮を逆に敵と思い、大怨敵である念仏者・禅・律・真言師等を正しい師だと誤ってしまっている。助けようとする日蓮を、かえって大怨敵だと思い込んでしまっているので、女性はこぞって国主に讒言をし、伊豆の国へ流罪にしたうえ、さら
にまた佐渡へも流罪にした。
そこで日蓮は次のような願を立てた。「日蓮には全くあやまちはないはずである。たとえ間違っていたとしても、日本中のすべての女性を扶けようと願って立てた志は捨てがたいものである。ましてや法華経に説かれている通りに申し立てている。それなのにすべての女性は信じてしかるべきなのに、逆に日蓮を打たせるということは、日蓮が間違っているのであろうか。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・二乗・梵天・帝釈・四天王等は、これをどのように考えられているか。もしも日蓮が間違っているならば、そのことを示していただきたい」という願である。
ことに日天・月天は眼前に輝いている。また昔、仏前において法華経の行者を守護すべきことを聞いているうえに、「もし行者を妨害する者があったら頭を七つに割ってしまうと誓いを立てられているので、その誓いは今どのようになっているのか」と日蓮が強く盛んに守護の神々を攻めたてたので、諸天はこの国を罰して疫病が流行しているのである。
他の国からこの国を諸天に命じて責めさせるべきであるが、双方の国の人人が数多く死ぬことになるので、天のはからいでまず民の数をへらし、人の手足を切るように、大事な合戦に至らないようにして、この国の王臣等を責めながら、法華経の敵をほろぼし、正法を広めようとしたのである。
それなのに日蓮が佐渡の国へ流されたので、佐渡の守護職にあたっている人らは、国主の命に随って日蓮を敵視するのである。万民もまたその命に随っている。念仏者・禅・律・真言師等は、どんなことがあっても二度と鎌倉へ日蓮が帰ってこないように対策を立てていると言ってよこし、極楽寺の良観等は武蔵の前司である宣時(のぶとき)に頼んで私の御教書を書いてもらい、弟子に持たせて佐渡へわたり、日蓮を迫害しようとしたので、なんとも命が助かるとは思えなかった。諸天の御はからいについては、さておくことにしよう。
地頭という地頭等、念仏者という念仏者等は、すべて日蓮の庵室に昼夜に立ち添って、尋ねて来る人々を迷わせ、日蓮に会わせないように妨害しているなかで、あなたは夫の阿仏房(あぶつぼう)に櫃を背負わせて、夜暗にまぎれたびたび尋ねて来てくれたことは、いつの世になっても忘れることはできないことである。ただごととも思えない。日蓮の母が佐渡の国へ生まれ変わってこのように仕向けてくれているのではなかろうか。
中国の沛公(はいこう)という人は王になる人相をしていた。そこで秦の始皇は勅宣を下して、「柿公を打ち殺してきた者には、多大の賞を授与する」と言った。沛公は村里の中には隠れるところがなくなり、山の中へ逃げ入って一週間から二週間にも及んだ。その時に食物もなくなり命もすでに尽きようとしていたおり、沛公の妻である呂公(りょこう)という人が、ひそかに山中を尋ねて時折食物を届けだということであるが、彼の場合は妻なので、情のうえからも捨ててはおかれなかったからである。
今あなたの場合は、後世のことを思わなかったならば、なんでこのように尽くしてくれることができようか。またその為にあるいは住む所を追われ、あるいは科料に処せられ、あるいは住宅を取り上げられたりしたが、ついにわが意を通して、心をひるがえさなかった。
法華経の法師品には、「過去の世に十万億の仏を供養した人だけが、今生においてどのような困難にあっても退転せずに仏に成れる」と書かれている。もしそうだとしたらあなたは、過去世に十万億の仏を供養した女性である。そのうえ、人間というものは自分の眼の前では、いろいろと心をこめた世話をしてくれるものだが、眼の前から遠く離れてしまうと、心の中では忘れていなくとも、つい疎遠になってしまうものである。
それなのに去る文永十一年(1274)より今年弘安元年(1278)までの五ケ年の間に、この身延山へ佐渡の国から三度も夫である阿仏房を旅立たせられたことは、どのような御心ざしによるものであろうか。さながら大地よりも厚く大海よりも深い御心ざしである。
釈迦如来は、その昔、薩?王子としての修行中には、飢えた虎にわが身を与え、尸毘王として生まれた時は鳩のためにわが身を鷹に与えた、その功徳を、我が末法の時代にこのように法華経を信ずる人に譲り与えられると、多宝・十方の諸仏の御前で言明されておられたのであろうか。
そのうえ、お手紙によると「尼の父上の十三回忌が、来たる八月十一日」とのこと、また「その供養に布施として一貫文を送る」とのこと。あまりに御心ざしが尊いことであるので、手元に置いてある法華経十巻本を贈呈することにしよう。日蓮を恋しく思うときは、学乗房にこの経を読ませて御聴聞なさい。この御経を証明書として、後生には霊山浄土へ尋ねて来られるがよい。
さて、それはともかく、去年から今年にかけての疫病流行のありさまで、どのように暮らしておられるかと、心配のあまり法華経に無事でおることを懇ろに祈願していたが、いまだに不安な気持でいたところ、七月二十七日の午後四時頃に、阿仏房が到着したのを見て、「尼御前は無事で居られるか?」「国府入道殿はお元気か?」と真っ先に聞いたところ、「まだ二人とも病気にもかからず元気で、ことに国府入道殿は、一緒に途中まで来たが、早稲の取り入れ時期になってしまったので、代りに農事をしてくれる子がいないから仕方なく引き返して行かれた」と阿仏房が答えた時は、まさに眼の不自由な者が眼が見えるようになったような、また亡くなられた父や母が閻魔の宮から夢の中へ訪れてきて会うことができたような悦びであった。まことにまことに不思議なことであった。
身延山でも鎌倉でも、われわれの関係者には疫病で亡くなる人は少ない。例えば同じ船に乗り合わせていた場合、船が沈めば助かる人はなく、皆ともに海へ沈むことになるのだが、船が難破しても助け船に会ったか、または竜神の助けによって、無事に溺れず岸へたどり着いたようなもので、不思議なことである。
佐渡の一の谷(いちのさわ)入道が亡くなられたことについて、「深く哀悼の意を表している」と、亡くなられた入道の尼御前にお伝え願いたい。ただし、入道の信心については、(念仏を信じていたので、一心になって法華を信仰しなければ仏には成れないと)一言いきっておいたので、今はさぞ思い合わせていることであろう。たとえ念仏堂があったとしても、阿弥陀仏は法華経の敵を助けるようなことはしない。かえって阿弥陀仏の敵となってしまうことになる。亡くなられて悪道に落ち、悔やんでおられることと思うが、ただし、入道の堂の廊で命をたびたび助けてもらったことは、どのようなことがあっても忘れられない。
学乗房にいつも入道のお墓へ参って、法華経を読んであげるようにと伝えていただきたい。それでも仏に成るという願いはかなえられるとは思えない。それはそうとして残された尼が、どのように頼りなく嘆いておられるかと、悲しんでいると伝えていただきたい。また次の機会に申し上げることにしよう。
七月二十八日
日蓮花押
佐渡国府阿仏房尼御前
底本:―日蓮聖人全集―