妙法尼御前御返事(みょうほうあまごぜごへんじ)
あなたから来たお手紙に、ご主人が「妙法蓮華経を夜も昼も唱えられ、いよいよ臨終が近くなったら二声高声に唱えられた」という。その功徳でさらに死後も「生きている時よりも顔色が白く、形も安らかで変わったことがない」とあった。
法華経の方便品には「かくの如きの相、乃至 本末究竟等(ほんまつくきょうとう)」とある。また竜樹菩薩の著した大智度論によると、「臨終の時に身体の色が黒くなる者は地獄に落ちる」とある。守護国界主陀羅尼経には、地獄に落ちる人の悪相について十五種類、餓鬼道に落ちる人の八種類の悪相、畜生道に落ちる人の悪相五種類が説かれている。さらに天台大師の摩詞止観に「身体が黒色に変わるのは地獄の陰の色である」と記されている。
考えてみるのに、日蓮は幼少の時から仏法を学習してきたが、よくよく思うのに人の寿命は無常であって、吐く息は、吸いこむ息を待つ間もないくらいであり、風の吹く前の露のようなもので、いつ散ってしまうかわからないものである。
賢い人も、そうでない人も、老人も若い人も、すべていつ死を迎えるか定めのないことである。そこでまず臨終のことをよくわきまえて、その後で他の事を考えるべきであると思い、仏一代の聖教を解釈した論師や人師の参考書をだいたい考え集め、これを明鏡として、すべての人々の死ぬ時と、ならびに臨終の後のようすとを照らし合わせて見ると、少しも相違するところがなかった。
この人は地獄に落ち入る人、あるいはこの人は天上界に生まれる人と見分けがついていたのに、世間の人々は師匠や父母などの臨終の姿形をかくして、ただ西方の極楽浄土へ往生したとのみ言いふらしている。まことに悲しいことに、師匠は悪道に落ちて苦しみに耐えられないでいるのに、弟子たちはこの世に残って、師匠の臨終はよかったとほめ、かえって地獄の苦しみを増長させているのである。例えば罪の深い人の口をふさいでおいて、いろいろと尋問したり、また腫れ物の口を切開しないでおいてなおそうとして痛みを増すようなものである。
このような次第であるのに、今のあなたのお手紙によると、ご主人が「生きている時よりも、なお色も白く、姿形も変わらずに安らかであった」ということである。
天台大師の摩訶止観には、「白い色は天にたとえる」とあり、竜樹菩薩の大智度論には、「赤色や白色で容姿の調っている者は天上界に生まれる」とある。
また天台大師の御臨終を記録した天台大師別伝によると、「色が白かった」とある。玄装三蔵の御臨終を記録した書物の中にも、「色は白かった」とある。
仏一代の聖教を定めた書物によると、「黒色の業の者は六道(地獄・餓鬼・畜生などの迷界)にとどまり、白色の業の者は四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞の悟界)となる」とある。これらの経論の文の証拠と、天台大師や玄奘三蔵などの現実の証拠とを照らし合わせて考えてみるのに、この人(亡くなられた妙法尼の夫)は、天上界に生まれたのではなかろうか。そのうえ、また法華経の名号を臨終に際して二返も唱えられたという(この事から考え、天上界に生まれられたことは、もはや間違いのないことである)。
法華経の第七巻の神力品には、「仏が滅度したあとの世において、この法華経を受け持つ人は、仏の道に入り成仏することは決定して疑いのないところである」とある。仏一代の聖教はどれもみな大事なもので、おろそかにすることはできない。すべてわれらの父親である大聖教主釈尊の金言である。みな真実であり実語である。
そうした中においても、また小乗・大乗・顕教・密教・権大乗・実大乗といったぐあいにいくつにも分かれている。仏説というのは、二天・三仙・外道・道士といった仏教以外の経典と対比してみると、これらは妄語であり、仏説の経典は実語の教えである。
しかしこの実語である仏教の中にまた妄語と実語との区別があり、綺語(真実でない飾りたてた言葉)や悪口もある。そうした中でも法華経は、実語の中の実語であり、真実の中の真実の経典である。
真言・華厳・三論・法相・倶舎・成実・律・念仏・禅寺の諸宗は、実語の中の妄語からなり立った宗派である。それに対して法華経はこれらの宗派にはくらべものにならないほど優れた実語である。
法華経は実語であるというのみではなく、仏一代の妄語方便の経典でさえも、法華経の大海に流れ込んでしまえば、法華経の御力に感化されて実語となるのである。ましてや法華経の題目についてはなおさらのことである。
ちょうど白粉の力は漆を変じて雪のように白くしてしまうようなものであり、須弥山に近づくさまざまな鳥は、みんな金色となるようなものである。同じように法華経の名号を持つ人は、一生の間、ないし過去数えきれないほどの昔からの黒い悪業が変じて白い大善となるのである。まして、無限の過去からの善根はみな変化して金色となるのでおる。
このようなことから、あなたの亡くなられたご主人の聖霊は、人生最後の臨終にあたり、南無妙法蓮華経とお唱えになられたということから考えて、一生の間ないし無隈の過去からの長きにわたる悪業も、皆変じて仏の種子となる。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏という法門はこのことである。このような人と夫婦としての縁を結ばれたのであるから、また女人成仏も疑いのないものである。
もしもこのことが嘘であるとしたら、釈尊・多宝・十方の世界にいる釈尊の分身の諸仏は、うそつきの人、大うそつきの人となり、悪人であることになる。すべての人をだまして地獄へ落とし入れる人となってしまう。
そうなれば逆に提婆達多が寂光浄土の主となり、教主釈尊が阿鼻大地獄の炎で焼かれて苦しむこととなる。太陽や月は地に落ち、大地はひっくりかえり、河はさかさまに流れ、須弥山はくだけ散ってしまうことになる。
もしも、そうだとしたら、日蓮がうそを言ったからではなく、十方三世諸仏がうそをいったことになる。こんなばかげた事は断じてありえないことであるが、詳しいことはまたお目にかかった時に申し上げたいと思う。
七月十四日
日蓮花押
妙法尼御前にお伝えいただきたい.
底本:―日蓮聖人全集―