諫暁八幡抄 (かんぎょうはちまんしょう)
弘安三年(一二八〇)一二月、五九歳、於身延
馬というものは一、二歳の時は、たとえ関節がのびて円(まる)い脛(すね)で、脛が細長く腕が伸びていても、病気があるようには見えない。
しかし、七、八歳になって身体も肥え、血管が太くなり、上体が大きくなり下体が細い時は、ちょうど小さな船に大きな石を積み、小さな木に大きな果実がなったように、いろいろの病気が出てきて、人の役にも立たず、力も弱く、寿命も短くなるものである。
諸天や神々などもそのようなものである。この世界ができたばかりの成劫の時代のはじめには、前世の果報がすぐれた衆生が生まれかわってくる上に、人間も悪いことをする者がいないから、神々の身も輝き、心も清らかで、日月のように鮮かで、師子や象のように勇ましかったけれども、成劫もすぎて住劫の時代になると、前代からの諸天や神々も年をとって、ちょうど下旬の月のように衰えてくるのである。
今度あらたに生まれてくる諸天や神々たちは、だいたいは果報の劣った衆生である。
そのようなわけで、この世界中に火災・水災・風災の三災や七難が現われてきて、すべての人びとは初めて苦しみと楽しみ安らぎとを思い知るのである。
この時、仏がこの世に出現して、仏教という良薬を調合して、諸天と人間と神々とに与えられたので、ちょうど灯に油を加え、老人に杖を持たせたように、諸天や神々は仏教の力によってふたたび威力を増し、勢力を増して、成劫の時代のようになったのである。
仏の説かれたお経には、乳・酪・生蘇(しようそ)・熟蘇(じゆくそ)・醍醐(だいご)の五種の味がある。
仏ご在世の衆生は、成劫の時代ほどではないけれども、それほど果報が衰えていない衆生であるから、五味の中のいずれのお経の法味を食しても威光勢力を増したのである。
しかし、仏が御入滅されてのち、正法・像法の二千年を過ぎて末法の時代になると、前代の諸天も神々も阿修羅も大竜なども、次第に年老いて身体も疲れ、心も弱くなり、また今新しく生まれてきた天・人・修羅なども、小さな果報の者であるか、あるいは悪い天・人などである。
これらの天・人・阿修羅などが、小乗や権大乗などの乳味や酪味や生蘇味や熟蘇味を服用しても、ちょうど老人に粗末な食事を与え、身分の高い人に麦飯などをさしあげたようなもので、少しも滋養にならず効果はないのである。
ところがこのことをまったく知らない今の世の学者たちは、ただ昔からの習わしで、日本国の一切の神々の前で、阿含経や方等部の経や般若経や華厳経や大日経などを法楽のために読誦し、またこれらの経々を依りどころとする倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・浄土宗・禅宗などの僧たちを、護持僧といって神々に奉仕する役目をさせているのは、老人に粗末な食事を与え、子供に固いご飯を食べさせるようなものである。
そのうえ、今の小乗経と小乗宗、大乗経と大乗宗とは、昔のままの小乗や大乗の経・宗ではなく、それよりずっと劣ったものである。
もともとインドから中国へ仏法が伝えられた時、小乗や大乗の諸経には、釈尊の説かれたお言葉に翻訳者の私言が混じったのである。
大・小乗の諸宗もまた同じように、インドや中国の論師や人師たちが、小乗を大乗といったり、また大乗を小乗といったり、小乗の中へ大乗を書き加えたり、大乗の中へ小乗を挿し入れたり、先に説かれた経を後に説いた経としたり、後の経を先に置いたり、先の経を後の経に付け加えたり、顕経を密経といったり、密経を顕経といったりしている。
これを譬(たと)えていえば、ちょうど乳の中に水を加え、薬に毒を混じえたようなもので、不純なものとなっているから、これらの諸経を信じ読んでも何の効果もないのである。
涅槃経の巻三の寿命品に仏が未来のことを予言して「その時にもろもろの賊(悪僧)たちが、醍醐味の中に水を加えたところが、水が多すぎて乳味でも酪味でも醍醐味でもなくなってしまった」と説かれている。
阿含小乗経は乳味のようなものであり、方等部の大集経や阿弥陀経や解深密(げじんみつ)経や楞伽経や大日経などは酪味のようなものである。
般若経などは生蘇味のようなもので、華厳経などは熟蘇味のようなもので、法華経・涅槃経などは醍醐味のようなものである。
たとえ小乗経が乳味のようなものであったとしても、仏説の通りであるならば一分の薬効はあるはずである。
まして酪味以上の諸大乗経や、最高の醍醐味である法華経がすぐれた薬効をもつことはいうまでもないことである。
ところがインドから中国へ仏法を伝えた翻訳者百八十七人のうち、羅什三蔵一人を除いた前後の百八十六人は、純粋な乳に水を加え、薬に毒を入れたような人びとである。
この道理を知らないすべての人師や学者たちは、たとえ一切経を読誦し、十二分経を諳(そら)んじて胸に浮かべるほどであっても、生死の迷いを離れることはできない。またたとえわずかの効験(しるし)があるようにみえても、天地を動かすほどの祈りとはならない。
魔王や魔民などの守護があって、一時は法の効験があるようでも、悪魔のために欺かれたのであるから、結局は祈りを修した人もその信者も安穏であることはできないのである。
たとえていえば、邪法の旧医が薬に毒を混ぜておいたのを、その弟子たちが知って盗み取ったり、あるいは知らずに取り出して、病人に与えて治そうとするようなものであって、どうして安穏でいられようか。
今の世の日本国の真言などの七宗、ならびに浄土宗・禅宗などの学者たちは、弘法や慈覚や智証などが法華経最第一の醍醐味の中に、法華第二とか法華第三とかの自分勝手な意見の水を加えたのを知らないのである。
これらは前に引いた涅槃経に「醍醐でもなく水でもないものにしてしまった」と仏の説かれた大きな過ちを脱れることはできない。
そもそも大日経は法華経より七重も劣る経である。
それにもかかわらず弘法たちが反対に大日経最第一と判定して日本国に弘めたのは、法華経という乳一分の中に、大日経という水七分を加えたのである。
そのようなものは水でもなければ乳でもなく、大日経でもなければ法華経でもないのである。
しかも法華経にも似ていれば大日経にも似ているという、あいまいなものになってしまったのである。
教主釈尊はこのことを涅槃経巻九の如来性品に「わが滅後に(中略)正法がまさに滅びようとする時に、多くの悪僧が現われるであろう。(中略)牛飼いの女が乳を売って多くの利益を得ようとして、乳の中に二分の水を加える。(中略)この乳は水気が多い。(中略)その時に、この経が広くこの世界に弘まるであろう。そこで多くの悪僧たちがこの経をかすめ取って、多くの部分に寸断して、正法の本来の色や香りや味わいを失(な)くしてしまうであろう。この悪人たちは、たとえこの経典を読誦したとしても、仏の深い覚りの教えの要点を滅ぼしてしまうであろう。(中略)また前の文章を抜き出して後につけたり、後の文章を抜き出して前につけたり、前後の文章を中間に置いたり、中間の文章を前後に置いたりする。このような悪僧たちは、まさしく悪魔の仲間と知るべきである」と誡(いまし)められている。
今、日本国のことをよく考えてみると、国が始まってからすでに永い年月を経ている。したがって古い守護の善神は、きっとその福も尽き、寿命も減り、威光勢力も衰えたことであろう。
正法の味をなめさえすれば神々の威光勢力も増すのであるが、その正法は失われて邪法がはびこり、神々の年齢も老いてしまった。
これではどうして国の災難を払い、氏子を守護することができようか。
そればかりでなく、日本国が謗法の国であるのに、氏神であるからといって氏子の犯した謗法の大罪を懲らしめることもせず、かえって守護されるならば、仏の御前で正法の行者を守護するという誓いを立てられたその約束を破る神と言わなければならない。
しかし、氏子のことであるから、愛する子が罪を犯しても親がこれを捨てないように守護されているために、法華経の行者を怨み憎む国主や国民に処罰を加えないで、これを守護した過ちによって、八幡大菩薩などの神々は梵天・帝釈天などに罰せられ、その宮殿を焼かれたのであろう。このことは一大事であるから秘密にしなくてはならない。
ある経の中に「仏がこの娑婆世界と他の世界との梵天や帝釈天や日天・月天・四天王・竜神たちを集めて、わが滅後の正法・像法・末法の三時代の持戒・破戒・無戒の弟子たちを、第六天の魔王や悪鬼神などが国王や人民の身に入って悩ますのを、見たり聞いたりしながら、これを罰しないですごすならば、必ず梵天・帝釈天が使者を遣わして、四天王に命じて処罰を加えるであろう。もし氏神が処罰を加えないならば、梵天や帝釈天や四天王などがその氏神に処罰を加えるであろう。梵天や帝釈天もまたこの通りで、他方の世界の梵天や帝釈天などが、この世界の梵天・帝釈天・日天・月天・四天王などの治罰を怠っている者を必ず処罰するであろう。もしこれに背くならば、三世の諸仏の出世にも出会えず、永く梵天・帝釈天の位をも失って、ついには無間地獄に堕ちるであろう」と、釈迦・多宝・十方の諸仏の御前で起請文を書かれたことが記されている。
今これを考えると、そもそも日本国の国王や神となるのは、小乗では三賢の位といって五停心観(ごじようしんかん)・別相念住(ねんじゆ)・総相念住の位にある聖人であり、大乗では五十二の菩薩の階位の中で十信の位の菩薩であり、法華経では六即の中の名字即(みようじそく)といって法華経の名を聞いて信心を起こす位、随喜品・読誦品・説法品・兼行六度品・正行六度品の五品の観行(かんぎよう)即の位の菩薩である。
それであるからどのような氏神があって無量の功徳を積んでも、法華経の名を聞いて信心を起こさず、一念三千の観法を修行しようともしなかったならば、退位の菩薩といって、みずから菩薩の位を退いた者となって、無間地獄に堕ちて永久に浮かびあがることはできないだろう。
それゆえ、扶桑略記(ふそうりやつき)の中に「伝教大師が八幡大菩薩の御(おん)ために、宇佐の神宮寺で法華経を講ぜられたところが、八幡大菩薩がその講を聞きおわってから託宣されるには、自分は多年の間経文の声を聞くことができなかったが、いま幸いにも和尚に会って如来の正教である法華経の教えを聞くことができた。そればかりでなく自分のために種々の功徳を積んでくれたことは、言葉に尽くすことのできないほどの喜びである。何をもってこの功徳に報謝することができようか。幸い秘蔵の法衣があるから御礼に供養する、とのことであった。
そこで託宣を受けた神主が、みずから宝殿を開いて紫の袈裟と紫の法衣とを捧げて、和尚にたてまつって、どうぞ大慈悲をもってこれを納受して下さいといった。
この時に奥宜や祝(はふり)などの神官たちが一同に不思議なことと驚いて、このような不思議なことはこれまでに見たことも聞いたこともないと称歎したのであった。この大菩薩が布施された法衣は今も比叡山の山王院にある」と記されている。
今このことから思うには、八幡大菩薩は人王第十六代の応神天皇である。その時にはまだ仏教がなかったから、袈裟や衣があるはずがない。人王第三十代の欽明天皇の第三十二年に神となって顕われ、それより弘仁五年(八一四)の伝教大師の講経までの間は、奥宜や祝などの神官たちが引き続いて八幡大菩薩の御宝殿を守っていたのである。
いったいどの天皇の時にこの袈裟と法衣とが納められたのであろうか。しかも奥宜たちは「いまだかつて見たことも聞いたこともない」といっている。
では八幡大菩薩はどうしてこの袈裟と法衣とを所持されていたのであろうか。まことに不思議なことである。
また欽明天皇の御代から嵯峨天皇の弘仁五年にいたるまでには二十二代の天皇の御代を経ており、仏法が日本に伝わってからは二百六十余年を経ているのである。
その間に三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗・禅宗などの六宗や七宗が日本に伝来していたから、八幡大菩薩の御宝前で経を講じた人びとも数えきれぬほど多くある。
また法華経を読誦した人も必ずいたことであろう。また八幡大菩薩の御宝殿のかたわらには、神宮寺といって法華経をはじめ一切経を講ずるための寺院が、伝教大師よりも以前からあったのである。
その時以来、きっと仏の教えを聴聞されたことであろう。
それにもかかわらず、どうして今はじめて「自分は久しい間お経の声を聞くことがなかった」などと託宣されたのであろうか。
また多くの人びとが法華経や一切経を講じられたのに、どうしてこの袈裟や法衣を供養されなかったのであろうか。
それは、伝教大師以前は法華経の文字だけは読んだけれども、真実の意義は顕われなかったからであることを知らなければならない。
その証拠に、去る延暦二十年(八〇一)十一月中旬の頃、伝教大師が南都七大寺の六宗の学徳すぐれた高僧十余人を比叡山に請待して法華経を講ぜられた時、和気弘世(わけのひろよ)と真綱という兄弟二人がこの講義を聞いて、「この法華真実の一仏乗の妙義が弘まらずにいたことはまことに残念であり、空仮中(くうけちゆう)三締円融の真理が顕われなかったことは悲しいことである」と歎かれ、また「この世間の人びとは長幼ともに迷いの世界の絆を切るのに、法華以前の方便権教の廻り遠い修行の形式を離れることができないのは悲しいことである」ともいわれた。
その後、延暦二十一年正月十九日には、桓武天皇が高雄寺に行幸せられて、南都六宗の高僧と伝教大師とを召し合わせられて、おのおのの宗旨の勝劣についての問答を聞かれた時に、南都の十四人の学者たちは誰一人として答えることができず、口を開く者もなかった。
その後に改めてたてまつった帰伏状には「聖徳太子の仏法興隆以来二百余年の間に講じられた経文や論書は非常に多くあるが、互いに理屈を立てて勝劣を争って、いずれがすぐれているか、その疑いはいまだに解(と)けない。
しかもこの最もすぐれた天台法華宗の教えはいまだ弘められていない」といっている。
これらのことから考えてみると、伝教大師以前には法華経の実義はまだ顕われなかったのである。
それゆえ、八幡大菩薩が「見たことも聞いたこともない」と託宣されたことは、このことを指すのであって、いかにも明白である。
法華経の第四の巻の法師品には、「わが滅度の後に、よくひそかに一人のためにでも法華経を説く者があるならば、その人はまさしく如来の使である。(中略)如来は衣をもってその人を覆(おお)い、守護せられるであろう」と説かれている。
このことから考えると、未来の世に出世される弥勒仏は、必ず法華経を説かれるはずであるから、釈迦仏は大迦葉尊者を使者として衣を送られたのである。
それと同じく、伝教大師は仏の御使として法華経を説かれるはずであるから、仏は八幡大菩薩を使者として衣を送られたのであろう。
またこの八幡大菩薩は、伝教大師以前には、乳に水を加えたような法華経の法味を食しておられたが、前生の善根功徳によって応神天皇と生まれかわり、その善根のお蔭によって八幡という神とも顕われて、この日本国を守護してこられたのであるが、今は前世の善根功徳による福も尽きてしまい、正法の教えの味もなくなってしまった。
そればかりでなく、謗法の者が国中に充ち満ちてすでに長い年月を経ているので、久しい間日本国中の衆生に神と仰がれてきたから、その氏子が謗法の大罪を犯していても、ちょうど年老いた親が不孝の子を可愛がって捨てることができないように、これを捨てずにかばわれたから、諸天の責めを受けられて宝殿を焼くようなことになったのであろう。
またこの袈裟は「法華経最第一」と説き弘める人だけがかけることのできるものであるが、伝教大師の後は第一の座主の義真和尚は「法華最第一」と説かれた人であったから、この袈裟をかける資格があるといえる。
しかし第二の座主円澄大師は、伝教大師のお弟子であるけれでも、また弘法大師の弟子でもあって、少し謗法の者に似ているから、この袈裟をかける資格はない。
第三の座主慈覚大師円仁は、名は伝教大師のお弟子であるが、心は弘法大師の弟子であって、「大日経第一、法華経第二」といった人であるから、絶対にこの袈裟をかける資格はないのである。
たとえかけたとしても法華経の行者ではない。
その上、今の天台宗の座主は、大日経第一という慈覚の流れをくむ人びとであるから、みなすべて真言の座主である。
また今の八幡宮の別当も、大日経第一という智証大師や弘法大師の流れをくむ園城寺の長吏や東寺の末流であって、これらの人びとは遠くは釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵であり、近くは伝教大師の敵である。
たとえば提婆達多が釈尊のお袈裟を掛けたようなものであり、また猟師が法衣を着て師子の皮を袷ぐようなものである。
今の世の天台座主は、伝教大師が八幡大菩薩からたまわったお袈裟をかけながら、法華経の領分を奪い取って真言の領分としてしまった大謗法の人びとである。
たとえば阿闍世王が仏の怨敵である提婆達多を師匠としたようなものである
それにもかかわらず、八幡大菩薩がこれらの人びとから袈裟を袷ぎとってしまわないのは、これ第一の大罪といわなくてはならない。
この八幡大菩薩は、仏が霊鷲山(りようじゆせん)で法華経を説かれた座に列なって、仏の滅後に必ず法華経の行者を守護するとの起請文を書きながら、この数年の間、日蓮を迫害する法華経の大怨敵を処罰されないのは、まことに不思議に思われるうえに、たまたま法華経の行者が出現したのを見て、たとえ現われ来たって守護をしないまでも、自分の眼の前で国主北条氏などが法華経の行者に迫害を加えることは、ちょうど犬が猿をかみ、蛇が蛙を呑み、鷹が雉を殺し、獅子が兎を殺すようであるのを眼前に見ながら、一度も懲らしめようとしないのは遺憾である。
たとえ懲らしめたようであっても、わざと手ぬるい処罰をしたから、梵天・帝釈天・日天・月天・四天王などの責めを、八幡大菩薩が受けられたのであろう。
たとえば、欽明天皇・敏達天皇・用明天皇の三代の帝王が、物部大連と守屋などの勧めによって、宣旨を下して金銅の釈尊像を焼き、それを安置した御堂に火をつけたり、僧尼を責め殺したりしたから、天から火が降って内裏を焼き、その上に日本国中の万民が何の罪もないのに悪性のできものにかかり、そのために死ぬ者が大半を超えたのである。
そして結局は、右の三代の帝王と二人の大臣と、その他多くの王子や公胃などが、あるいは悪瘡のため、あるいは合戦のために滅びたのである。
また日本国の百八十の神々が栖(す)んでいた宝殿もすべて焼けてしまった。これは釈尊に敵する者を守護された大きな過失によるものである。
また園城寺は比叡山より以前からの寺であったが、智証大師円珍が真言を伝えてからは、その寺主を長吏と呼んでいるが、比叡山の末寺であることは疑いないことである。
それにもかかわらず、比叡山の特色であった大乗戒壇を奪いとって、園城寺に建立して比叡山には随わないといっている。
たとえていえば身分の低い臣下が大王に敵対したり、子供が親に背いて不孝をするようなものである。
このような悪逆の寺を三井の守護神である新羅大明神がおきてに背いてみだりに守護されるから、たびたび山門の攻撃を受けて宝殿を焼かれたのである。
それと同じように今、八幡大菩薩は法華経の大怨敵である謗法者を守護されたために、天の火に宝殿を焼かれたのである。
例をあげると、中国の秦の始皇帝の先祖の襄王が、後に蛇神となって始皇帝を守護されたのであるが、始皇帝が大いに慢心を起こして、中国古代の聖人(せいじん)である三皇五帝の書である三墳五典などを焼いたり、孔子・老子・顔回の三聖の孝経などを灰にしてしまったので、漢の高祖沛公という人が現われて、剣をもって始皇の氏神であった大蛇を切り殺したのである。
それから間もなく秦の世は滅びたのである。
わが国もこれと同じである。
安芸の国の厳島大明神は平家の氏神であるが、あまりに平家を隠(おご)らせた過失によって、伊勢大神宮や八幡大菩薩のために神打に打たれて、それから間もなく平家が滅びたのである。
今の八幡宮の宝殿が焼けたのもまたこれと同じ理由によるのである。
法華経の第四の巻宝塔品には、「仏の滅後に、よくこの法華経の義理を解(さと)る者があれば、その人はもろもろの天・人・世間の眼である」と説かれている。
今、日蓮が法華経の肝心である妙法蓮華経の御題目を日本国に弘通するのは、すなわち「もろもろの天・人・世間の眼」ではないか。
そもそも眼には肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五種がある。
この五種の眼はいずれも法華経から生まれたものである。
それゆえ観普賢経には「この方等大乗経は諸仏の眼であって、諸仏はこれによって五眼を具えることができた」と説かれている。
この経文に「この方等経」というのは、広大にして平等な実相の真理を説いた大乗経という意味で、法華経のことである。
また同じ観普賢経の中に「人・天が善根の種をまくべき良い田であり、この経の行者を供養するのが最上の供養である」と説かれている。
これらの経文によれば、妙法蓮華経は人・天の眼であり、声聞・縁覚の二乗や菩薩の眼であり、十方三世の諸仏の眼である。
それゆえに法華経の行者を怨み憎む人びとは、人・天の眼を抉(えぐ)る者である。
それにもかかわらず、その人びとを処罰しようとしない守護神は、一切の人・天の眼を抉る者を保護される神である。
弘法や慈覚や智証らは確かに書物を作って、「法華経の教主釈尊は迷いの分斉で、悟りの領域には入らない」。「法華経は後の大日経などのすぐれた経に比べれば戯論である」。「法華経の教主釈尊は駕籠(かご)を担ぐ人にも及ばず、草覆(ぞうり)取りにも足りない」などと書いて、法華経を貶(けな)して四百余年にもなる。
その間、日本国の上は天皇から下は万民にいたるまで一同に法華経を侮るままにさせておき、一切衆生の眼を抉る者を守護してきたのは、八幡大菩薩のあまりにも偏ったお計らいであるといわねばならない。
また日蓮の身についていえば、去る弘長元年(一二六一)五月十二日伊豆の国に流され、文永八年(一二七一)九月十二日の竜口法難の時には、日蓮には何の罪もないのに、ただ南無妙法蓮華経と唱え弘めるのを大きな罪として、国主たる執権の処置として、八幡大菩薩の御前を引き廻して、国じゅうの謗法の者どもに日蓮を安(あざけ)り笑わせたのは、八幡大菩薩の大きな過失ではないか。
それでもまったく謗法の者どもを誡(いまし)めないというのではなく、わずかに誡められたと思うことは、北条一門に同士打ちをさせただけである。
もとより八幡大菩薩は応神天皇という日本国の賢王であったうえ、伊勢神宮と第一第二を争うほどの神であって、八幡大菩薩にまさる神はないのである。
また正直の神であるから、不公平なことは決してあるはずがないと思うけれども、一切経と法華経のおきてによってみると、八幡大菩薩は謗法の者どもを守護して、法華経の行者を守護しないところの、きわめて不公平な神であるから、大きな過失を犯した神といわねばならない。
行基菩薩によれば、日本六十六か国に壱岐・対馬を加えた六十八か国の中にある寺院一万一千三十七か寺に安置されている仏は、画像や木像の区別があり、また真言宗伝来以前の古い寺もあり、それ以後の寺もあるが、これらの仏はみな、法華経を悟られて仏になったのであるから、法華経をこそ眼とすべきであることは、前に引いた観普賢経に「この方等大乗経は諸仏の眼である」と説かれている通りである。
また妙楽大師は法華文句記に「この法華経は仏性の常住を咽喉とし、一乗の妙行を眼目とし、仏種の腐敗した二乗を再生成仏させるのを心臓とし、仏の久遠実成(くおんじつじよう)の本地を顕わすのを生命としている」と言われている。
それであるのに、日本国の風習として、真言宗にかぎらず諸宗の者が一同に、真言宗の大日仏眼の印を結んで仏像を開眼し、大日如来の真言を唱えて五智を備えさせる、などといっている。
これらは法華経によって仏となった者を、方便権教の真言経で供養するのであるから、開眼するどころか、かえって仏を殺し、眼を抉(えぐ)り、生命を断ち、咽喉を裂く人びとというべきである。
これはちょうど提婆達多が教主釈尊の御身から血を出し、阿闍世王が提婆達多を師匠として悪瘡を病んで現罰を受けたのにまさるとも劣ることはない。
八幡大菩薩は応神天皇で小国日本の王、阿闍世王はインドの摩竭陀(まかだ)国という大国の王である。
その勝劣は天と人と、王と民とのようなものである。
しかしながら、その大国の王である阿闍世王でさえ、教主釈尊に敵対をして謗法の罪を犯したために、全身に悪瘡を病むという罰を受けられたのであるから、まして小国日本の八幡大菩薩が、釈尊と法華経の行者を軽んずるのを見て処罰しないその罪をどうして脱れることができようか。
現に、去る文永十一年(一二七四)に大蒙古国の軍勢が筑紫へ攻め寄せてきた時、日本国の兵を多数殺傷したばかりでなく、八幡大菩薩の宝殿である筑紫の宇佐八幡宮も焼かれてしまったではないか。
その時どうして、かの大蒙古国の兵士たちを罰せられなかったのであろうか。
これは、かの大蒙古国の大王の力が、この日本国の神よりもすぐれていたからであることは明らかである。
それは襄王の蛇神は中国第一の神であったけれども、漢の沛公の利剣によって切り殺されたことから見ても考えられることである。
これと同じように、弓削(ゆげ)の道鏡が称徳天皇の寵愛(ちようあい)を受けて、国王となろうとした時、和気清麿(わけのきよまろ)が勅命を受けて宇佐八幡宮に祈願を捧げた時に八幡大菩薩の御託宣に「そもそも、神には大神と小神、善神と悪神との区別がある。(中略)彼(かれ)は多く我(われ)は少なく、邪神の勢力は強く、善神の勢力は弱い。そこで仏力の御加護によって皇位の継承を正しく隆盛にしなければならない」とあった。
これによって八幡大菩薩は法華の正法を力として王法を守護されたことを知らなければならない。
それであるのに、承久の変において、朝廷方では叡山や東寺や園城寺などの真言の邪法をもって、権大夫北条義時を調伏したために、かえって北条義時が勝って鎌倉方の世となり、隠岐の法皇(後鳥羽上皇)が負けたのである。
法華経普門品に「祈った者がかえって罰を蒙る」とあるのはこのことをいわれたものである。
また日本国の一万一千三十七の寺々と三千一百三十二社の神々は、国家安穏のために祀(まつ)られ崇められているのである。
ところが、その寺々の別当や社々の神主らは、すべて彼らが崇めているところの御本尊や神々の御心に相違している。
それらの仏と神々とは、体は異なっていてもその心は同じで、法華経の守護神である。
それなのに別当や神主らは、真言師や念仏者や禅僧や律僧であったりして、みなすべて八幡大菩薩の敵である。
これらの謗法の者や仏・神に対して不孝の者を守護されて、正法の法華経を弘める行者日蓮を守護せずに、流罪や死罪に値(あ)わせたから、諸天の責めを受けて宝殿を焼かれたのである。
日蓮の弟子たちの中で、謗法のなごりがまだ残っている者たちは、この御房(日蓮)は八幡大菩薩を敵とするから守護がないのだと思っている。
これは祈願した方に祈願が成就すべき正しい道理があるにもかかわらず、祈願が成就しない場合には、その祈願の対象である本尊を責めるということを知らない者の考えることである。
付法蔵経の巻一の中に大迦葉尊者の因縁を説いて「ある時、摩竭陀国に尼倶律陀(にくりつだ)という婆羅門があった。過去の世において長い間多くの善根を積んだ功徳によって(中略)現世に豊かな財宝を有し、巨万の富を蔵していた(中略)その富は摩竭陀国王より千倍もすぐれていた(中略)財宝は豊かであったけれども、子供が一人もなかった。そこでその婆羅門が思うには、自分は年老いて死が近づいてきたが、蔵に満ちている財宝を譲るべき者もいない、何としても子供が欲しいものだと。そこで婆羅門はその家のそばの樹林神に、一人の子を授けたまえと祈請をささげたのである。しかし幾年を経ても、いっこうに効験がなかった。そこで尼倶律陀は大いに怒って、樹林神に向かっていうには、自分は祈請をささげてすでに数年を経ているのに、いまだに何の福報もない。これからさらに七日の間一心に祈請をこらすが、それでも何の福報もなければ、ただちに祠を焼き払うであろう、と。樹神はこれを聞いて大いに心を痛め、四天王に向かってこのことを告げた。四天王はさらにこれを帝釈天に言上したのである。そこで帝釈天は広く世界中をご覧になったけれども、尼倶律陀の子とするに足るような福徳をもった者がいなかった。そこで帝釈天は梵天王にこのことを告げられたのであった。梵天王が天眼をもって広く世界中をご覧になると、ちょうど一人の梵天がまさに臨終を迎え死せんとしているのが見えた。そこで梵天王は彼に向かって、汝もし天から下界に生まれ変わるならば、閻浮提の尼倶律陀婆羅門の家に生まれよといった。その梵天が答えていうには、婆羅門の法には悪見や邪見が多いから、自分はそのような者の子となることはできない、と。梵天王が重ねていわれるには、尼倶律陀婆羅門は大威徳があって、世界中に彼の子となって生まれるほどの者がないから、もし汝がかの婆羅門の家に生まれるならば、自分が汝を護って邪見に陥らないようにしてやろう、と。そこで梵天は、それならば仰せの通りにしましょう、と答えた。この答えを得た梵天王は帝釈天にこれを伝え、帝釈天は樹神にこのことを伝えたのである。樹神はこれを聞いて大いに喜び、婆羅門の家へ行っていうには、汝はもはや我を恨んではならない。これより七日の後に必ず汝の願いはかなうであろうと。はたして七日を経て婆羅門の妻が懐妊し、十か月を満ちて一人の男児を生んだ。(中略)それが今の大迦葉尊者である」と記されている。
この経文の中に「少しの効験もなかったので、尼倶律陀は大いに怒って」と記してある。
普通の場合ならば、いやしくも氏神に向かって怒りを生じたならば、現世では身を亡ぼし、後生には悪道に堕ちねばならない。
しかしながら、尼倶律陀長者は、氏神に向かって怒りを起こし、悪(あ)しざまにののしったことによって、かえって大願を成就し、迦葉のような賢い子を得たのである。
これによって、怒りというものは、善にも悪にも通ずるものであることを知らねばならない。
今、日蓮が八幡大菩薩を諫暁するのは、善の場合である。
今、日蓮は去る建長五年(一二五三)四月二十八日から、今年弘安三年(一二八〇)十二月にいたるまでの二十八年の間、ただひたすらに妙法蓮華経の五字七字を日本国の一切衆生の口に唱えさせようと努めてきたのであって、それ以外の何もなかった。
これはちょうど母親が赤子に乳を飲ませようと一生懸命に励むのと同じ慈悲の心である
。このような法華経の弘通(ぐずう)は、まさしく法華経を説くべき時が来たからであって、仏が自分の滅後第五の五百歳末法のはじめに大白法の法華経を弘めようと予言された、その末法の時代に当たっているからである。
天台大師や伝教大師の時代は、まだ像法の時代であったから、法華経流布の時に当たっていなかったのであるが、少しは法華経の機根もあったから、少々は法華経が流布したのである。
いうまでもなく今はまさしく末法の時代、仏の予言された後五百歳広宣流布の時である。
すでに時期が到来したのであるから、たとえ法華経の機根が少なく、水と火とのように敵対をなす機根ばかりであっても、どうしても法華経を弘通しなければならないのである。
不軽菩薩のように折伏(しやくぶく)弘通のために大難に値うようなことがあっても、ただひたすら法華経を弘通すれば、必ず流布することは疑いないのである。
それにもかかわらず、真言宗や禅宗や念仏宗の者たちの讒奏によって、無智の国主が日蓮を迫害し難を加えて、法華経の弘通を妨げるのである。
これら無智謗法の者たちを治罰すべきはずの氏神の八幡大菩薩が、少しも彼らの謗法の大罪を治罰しないから、日蓮が氏神を諫暁するのであって、これは決して道理に背くものではない。
ちょうど尼倶律陀長者が樹神を諫暁したのと少しも違いはないのである。
蘇悉地経の成就具支法品には「本尊が祈りを成就せしめない時には、その本尊を治罰せよ、本尊を治罰するには、鬼魅を退治するようにせよ」と説かれている。
この経文の心は、経文の通りに所願を成就するため、多年の間修法を行なっても成就しない時には、本尊を縛ったり、打ったりなどして責めよ、というのである。
比叡山東塔無動寺の開山・相応和尚が不動明王を縛りあげて祈ったというのは、この経文を見たからであろう。
今、日蓮が八幡大菩薩を諫暁するのは、尼倶律陀長者や相応和尚の場合とはまったく異なっている。
なぜならば、日本国の一切の善人が、戒律を持(たも)ったり、布施をしたり、父母先祖などの孝養のために寺塔を建立したり、成仏得脱のために妻子を養うべき財物を止めて僧たちに供養をしたりしているが、その供養や布施を受ける僧たちが謗法の者であるから、ちょうど謀叛の人と知らずに宿を貸したような、また親不孝の者と知らずに夫婦の契りを結んだようなものであって、現世では種々の災難に値い、後生には必ず悪道に堕ちて苦しまなければならないのは必定である。
それを、不憫(ふびん)と思い助けてやろうと努めているにもかからず、日本国の守護の善神たちは、かえって彼ら謗法の僧たちに味方して正法の敵となり、正法の行者を迫害するから、これを責めるのであって、これは経文の通りに行なっていることであり、道理にも契(かな)っているのである。
わが弟子たちの愚かな考えでは、わが師(日蓮)が法華経を弘通しながらいっこうに弘まらないばかりか、かえってしばしば大難に値うのは、「真言は国を亡ぼす悪法である、念仏は無間地獄に堕ちる悪業である、禅は天魔のすることである、律僧は国を賊する者である」と、四箇(しか)の格言をもって折伏するからである。たとえば、裁判において道理ある申し立てをしながら悪口を混じえるようなものである、などと思っている。
そこでこのような弟子に対しては逆に問い返して、試みに汝らに問うが、すべての真言師・念仏者・禅宗の者どもに向かって、南無妙法蓮華経と唱えよと勧めてみよ。
その時、かの真言師らは、「わが師弘法大師は法華経を戯論の法、釈尊を迷いの分斉(ぶんざい)である、駕籠(かご)かきや草履(ぞうり)取りにも及ばない、などと書かれている。そのような物の役にも立たない法華経を読むよりも、その口で真言の短い呪文を一回でも誦した方がましである」などというであろう。
またすべての在家の者、すなわち念仏者らは、「わが善導和尚は『法華経によって成仏する者は千人の中に一人もない』といい、法然上人は『念仏の他のすべての仏や経々を捨てよ閉じよ閣(お)けよ賀(なげう)てよ』といわれ、道綽禅師は『念仏以外の教えで得道した者はまだ一人もいない』と定められている。汝の勧める南無妙法蓮華経は、わが念仏の妨げであるから、たとえ悪業を造ることがあっても、決して題目などは唱えない」というであろう。
また一切の禅宗の者は、「わが宗は教外別伝といって、一切経のほかに、別に心から心へ伝えたところの法門である。たとえていえば、禅は天の月、一切経はその月をさす指のようなものである。ところが天台大師などの愚かな人師は方便としての指を大切に思って肝心の月を忘れている。法華経は指で、禅は月である。月を見てしまった後は、指は何の用もない」などというであろう。
このように他宗の者どもが法華経を謗っていう時に、どうしたら南無妙法蓮華経の良薬を彼らの口に飲ませることができるか、彼らの迷いをさますことができるか、よくよく考えてみるがよい、と。
教主釈尊はしばらくの間小乗阿含経を説かれてから後に、徐々に彼ら二乗の徒を法華経へ導き入れようと思(おぼ)し召されたのであった。
ところが一切の声聞たちは阿含経に執著して法華経へ入らなかったのを、釈尊はどのように御処置されたのであろうか。
このことを仏は維摩経の仏道品に「たとえ父・母・阿羅漢を殺し、仏身から血を出し、和合僧を破るという五逆罪を犯そうとも、また五逆罪を犯した者を供養するとも、また罪悪が成仏の種子となることがあろうとも、彼ら二乗の善根は決して成仏の種子とはならない」と説かれている。
教法は小乗と大乗と異なっていても、同じ仏の説かれた経である。
大乗が小乗を破斥して小乗を大乗にしようとするのと、その大乗の中でも権大乗を破斥して実大乗の法華経に入れるのと、破斥の対象に大小の相異はあるけれども、法華経へ導き入れようと思う心は一つである。
そこで法華経の序分である無量義経には、法華経以前に説かれたもろもろの大乗経を破斥して「仏の真実の意はまだ説き顕わさない」と説かれ、また法華経方便品には「余経を説いて法華経を説かないのは、法を惜しんだことになるから、このことは疑いもなくよくないことである」と説かれた。
すなわち仏はみずから「われ、もしこの世に出でて、華厳経や般若経などの諸経を説いて、法華経を説かずに入滅したならば、それはたとえば愛する子に財産を譲ることを惜しみ、病人に良薬を与えずに死に至らしめるようなものである」といわれ、さらに仏は「法華経を説かない慳貪(けんどん)の罪によって地獄に堕ちるであろう」といわれている。
法華経の文に「此の事(じ)はさだめて不可なり」といわれた「不可」というのは地獄の異名であって、地獄に堕ちるということをいわれたものとみるべきである。
まして法華経を説かれた後に、なお未顕真実の法華経以前の経々に執著して、法華経へ移ってこない者は、ちょうど人民が大王の命令に従わないようなものであり、子供が親に仕えないようなものである。
たとえ直接法華経を謗らなくとも、法華経以前の経々を讃めるならば、それは法華経を謗るのと同じである。
ゆえに妙楽大師は法華文句記の巻三に、「もし法華経以前の経々を讃めるならば、それは法華経を毀ることになる」とも、また巻四には「たとえ発心して仏道修行を志しても、不完全な教えか完全な教えかの区別を知らず、また、仏の誓いの境地、すなわち一切衆生を救うという根本目的を解(さと)らなければ、未来に法を聞いて修行しても謗法の科(とが)を免れることはできない」ともいわれている。
真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証などの人びとは、たとえ法華経と大日経とを比較して、大日経がすぐれているなどと言わないで、ただ大日経だけを弘めたとしてもそれは妙楽大師のいう昔の称歎であり、仏が法華経を説かれて入滅された後に生まれた三蔵人師たちであるから、偏円を簡(えら)ばず仏の出世の根本目的を解(さと)らないので、とうてい謗法の科を免れることはできない。
まして善無畏・金剛智・不空の三人は、「法華経は略説であり、大日経は広説である」などと二経を同じものとして、法華経の行者を大日経へだまして誘い入れ、弘法・慈覚・智証の三人は、法華経に「第三戯論」などという名をつけた大謗法の者であるのに、彼らの謗法の大罪を誰も明らかにする者がいなかったから、この四百余年の間に一切衆生はみな謗法の者となってしまったのである。
例をあげていえば、昔、大荘厳仏の時代の末に、苦岸(くがん)・薩和多(さわた)・将去(しようこ)・跋難陀(ばつなんだ)という四人の僧が出て、六百万億那由他という無数の人びとをことごとく無間地獄に堕(お)としたのと、また師子音王仏の末の世に出た勝意比丘が、喜根(きこん)比丘をはじめ戒律を持(たも)っていた多くの僧や尼や信男・信女たちを迷わせてすべて阿鼻地獄に導いたのと同じように、今の弘法・慈覚・智証の三大師の教えに随って、日本国の四十九億九万四千八百二十八人の一切衆生や、また四十九億と数えられるような多数の人びとが、この四百余年の間に死んで無間地獄に堕ちてしまい、またその後、他方の世界からこの国に生まれかわってきた者も同じように死んでから無間地獄に堕ちてしまったのである。
このようにくり返し無間地獄に堕ちた者の数は実に大地微塵(みじん)の数よりも多いのである。
これらはみな、三大師の罪である。
このような悲惨なありさまをみながら、知らぬふりをしていわなかったならば、日蓮もともに地獄に堕ちて、わが身には一分の罪もない身が、十方の大阿鼻地獄を経廻(へめぐ)らなくてはならないであろう。
こう考えてみれば今生(こんじよう)の身命を惜しんでどうして黙って見ていられようか、身命を捨てて法華経の弘通に努めなくてはならない。
涅槃経の第三十八の迦葉品に、仏は「一切衆生がそれぞれの業因によって受けるさまざまな苦しみは、ことごとくこれ如来一人の苦しみである」と述べて一切衆生の多様な苦を仏が代わって受けようと説かれたが、それと同じく、いま日蓮は「一切衆生が受ける同一の堕地獄の苦しみは、みな日蓮一人の苦しみである」といわねばならない。
昔、第五十一代平城天皇の御代に、八幡大菩薩が託宣されて「われは日本国守護の八幡大菩薩である。日本国の百王を守護するという誓願を持っている」といわれた。
しかし今よく考えてみると、人王第八十一代安徳天皇・八十二代後鳥羽天皇・八十三代土御門(つちみかど)天皇・八十四代順徳天皇・八十五代仲恭(ちゆうぎよう)天皇の諸王が、すでに臣下である源頼朝や北条義時のために打ち破られ、残りの二十余代の諸王は、八幡大菩薩が宝殿を焼いて天に上(のぼ)られたのであるから、見捨てられてしまったのである。
そうとすれば、百王守護の誓願はもはや破れてしまったのではないだろうか。
日蓮の考えでは、百王守護というのは、順番に百代までの王を守護するというのではなく、とくに正直の王百人を守護すると誓われたものであろう。
それは八幡大菩薩の御誓願に「正直の人の頂を栖(すみか)とし、邪(よこしま)な人の心には住まない」とあるからである。
月というものは清(す)んだ水には影を写すが、濁った水には影を写さないものである。
それと同じく、八幡大菩薩も清く正直な人の頂には住まれるが、濁った不正直な人の心には住まないのである。
元来、王というのは嘘をつかない正直な人をいうのである。この点からみれば、右大将源頼朝や権大夫北条義時は不妄語の人であり正直の人であって、八幡大菩薩の住まれる百王の内に入っているのである。
それゆえに彼らは八幡大菩薩の守護を受けて勝利することができたのである。
正直にも二種あって、一には一般世間の正直であり、二には出世間仏法の正直である。
はじめに一般世間の正直についていえば、王という字は、天と人と地とを貫くという意であって、天人地の三は横で、貫(つらぬ)いているのは縦の一本である。
すなわち天人地の三を一貫する正直の道を行なう人を王というのである。
また王というのは黄色のことで、古代中国において五色を五方に配する時、黄色は中央に配され中央を主宰するから黄帝といわれるように、中心となるもののことである。
天の主・人の主・地の主をすべて王というのである。ところが隠岐の法皇は名は国王であったが、身は妄語の人であり、よこしまな考えの人、不正直の人であった。
これに対し権大夫北条義時は名は臣下であったが、身は大王というべき人であり、不妄語の人、正直の人であったから、八幡大菩薩が守護すると誓願された頭頂(こうべ)の持ち主であったのである。
二に出世間仏法の正直というのは、法華経以前の諸経やそれにもとづいて立てられた七宗などの経論釈はみな妄語であり、法華経とこれにもとづく天台宗とは正直の経釈である。
八幡大菩薩は、その本地を尋ねると不妄語の経を説かれた釈迦仏で垂迹の身と現われては不妄語の八幡大菩薩である。
八葉の蓮華は八幡大菩薩であり、その中台は教主釈尊である。
釈尊は四月八日寅の日の御誕生で、八十年を過ぎた二月十五日申の日の御入滅である。
こうしてみると教主釈尊が日本国に八幡大菩薩と生まれかわられたものではないだろうか。
その証拠には、大隅の正八幡宮の石の銘文に「昔は霊鷲山にあって妙法蓮華経を説き、今は正宮の中にあって大菩薩の姿を現わす」と書いてある。
法華経譬喩品には「今この三界は、みなこれわがものであり、その中の衆生はすべてわが子である」と説かれており、また寿量品には「われは常に娑婆世界の霊鷲山にあって説法教化す」とも説かれている。
それゆえに、遠くは三千大千世界の一切衆生はすべて釈迦如来の御子であり、また近くは日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子である。
それにもかかわらず今の日本国の一切衆生が、垂迹応現の八幡大菩薩を崇(あが)めたてまつって、本地の釈迦仏を捨ててしまったのは、ちょうど影を大切にして本体を侮(あなど)り、子供に向かって親を罵(ののし)るようなものである。
八幡大菩薩の本地は釈迦如来であって、月氏インドに生まれては正直に方便経を捨ててただ真実の法華経を説かれ、垂迹は日本国に生まれて正直の人の頂に住まわれるのである。
もろもろの仏や菩薩が衆生救済のため種々に身をかえて現われた人びとの本地を尋ねると、法華経の実相の一理であるけれども、垂迹の応現には限りがないのである。
たとえば、薄倶羅(はくら)尊者が過去・現在・未来の三世にわたって不殺生戒の手本を示し、また鴦崛摩羅が生まれかわり死にかわり殺生の悪業を行ない、舎利弗尊者が外道の家に生まれたように、それぞれ垂迹の姿が異なっていることは、もと凡夫であった時のことを、発心して仏道に入り、修行を積んで仏となって衆生を教化する場合に、最初に自分が得道した法門として見せるがためである。
ゆえに妙楽大師は摩訶止観弘決の巻二に「もし本地に従って説くならば、はじめ殺生などの悪を犯してその因縁によって悟りを得たのであるから、垂迹の中でもまた殺生を方便として衆生を教え導くのである」といわれている。
今の八幡大菩薩は本地身としては月氏インドで唯一真実の法華経を説かれたが、今、日本国に八幡大菩薩として垂迹されては、かの法華経を正直の二字に収めて、賢人の頂に住むであろうと誓われたのである。
もしそうであるならば、この八幡大菩薩はたとえ宝殿を焼いて天に上られようとも、法華経の行者が日本国にあるならば、必ず降(くだ)ってその行者の住処を栖(すみか)とされ守護されるに違いない。
ゆえに法華経の第五巻の安楽行品には「諸天は昼夜に常に法のために行者を守護される」と説かれている。
この経文の通りならば、南無妙法蓮華経と唱える人をば、大梵天王・帝釈天・日天・月天・四天王などが昼夜に必ず守護されるはずである。
また第六の巻の如来寿量品には、「仏身を説いたり、九界の身を説いたり、仏界の身を現わしたり、九界の身を現わしたり、仏界のさまざまなことがらを見せたり、九界の衆生の業をみせたりする」とも説かれている。観世音菩薩でさえ三十三身を現じ、妙音菩薩もまた三十四身を現じて、衆生を救わんとするのであるから、教主釈尊がどうして八幡大菩薩と示現しないということがあろうか、必ず示現されるはずである。天台大師が法華玄義の巻七に「すなわちこれ形を十界に示して種々の姿を現ずる」といわれているのはこのことである。
インドの国を月氏国というのは、月は明らかなものであるから、仏の出現したまうという名である。
扶桑国をば日本国と呼ぶからには、どうして太陽のように明らかな聖人が出現されないはずがあろうか。
月は西から東へ向かうが、これは月氏インドの仏法が東方へ流布するという相である。
太陽は東から西へ向かうものであるが、これは日本の仏法が月氏インドへ還るという瑞相である。
月の光は太陽ほどに明らかではない。
それゆえ仏の御在世は法華経はただ八か年に過ぎなかった。
太陽の光は月よりもすぐれている。
これは第五の五百歳という末法の長い闇を照らす瑞相である。
仏が法華経を謗る謗法の者を救済されなかったのは、仏の在世には謗法の者がなかったからである。
末法には必ず一乗法華経の強敵がいたる処に充ち満ちるであろう。
この時、不軽菩薩の折伏逆化の利益が得られるのである。
末法の弘通はきわめて困難であるから、おのおのわが弟子たちは、一生懸命に不惜身命の弘通に励み精進しなくてはならない。
弘安三年〈太歳庚辰〉十二月 日
日蓮 花押
底本:―日蓮聖人全集―