現代語訳ご遺文  兄 弟 抄

兄 弟 抄  (きょうだいしょう)
  文永十二年(一二七五)四月十七日、もしくは建治二年、五十四歳あるいは五十五 於身延

そもそも法華経という経典は、八万四千の経典の肝心であり、十二部経と総称される一切経の骨髄である。  

三世の諸仏はこの経を師として正覚を開き、十方世界の分身の諸仏は、法華一乗を眼目として衆生をお導きになる。  

今まのあたり一切経蔵に入ってこれを見ると、後漢の永平年間から唐の末に至るまでの間に、中国に渡来した一切経論に二通りがある。  

羅什三蔵等の訳した旧訳の経は五千四十八巻で、玄奘三蔵等の訳した新訳の経は七千三百九十九巻である。  

その一切経はいずれもそれぞれの分にしたがって自分こそ第一であると主張している。  

しかしながら法華経とそれらの経々とを比較してみると、天地のような勝劣があり、雲泥のような高下がある。ちょうどそれらの経々はたくさんの星のようなものであり、法華経は月のようなものである。またそれらの経々はともしびやたいまつ、あるいは星や月のようなものであるのに対し、法華経は大日輪のように勝れたものである。  

以上は総体の比較である。  

別して法華経の文について見ると、勝れた二十の大事がある。  

その第一は三千塵点劫の法門、第二は五百塵点劫の法門である。  

第一の三千塵点劫というのは、法華経第三巻化城喩品に説かれてある。  

すなわちこの三千大千世界の土を粉末にして塵となし、東方に千の三千大千世界を過ぎて一つの塵を下し、さらに、千の三千大千世界を過ぎて、一つの塵を下し、かくして三千大千世界の塵をことごとく下してしまう。  

さてその塵を下した三千大千世界と下さない三千大千世界とを一緒にして、それをまた塵となし、この諸々の塵を並べて一塵を一劫とし、その塵を数えつくしたのが三千塵点劫というのである。  

今三周の声聞といって、法華経迹門の法説・譬説・因縁説の三周の説法で成仏の記別が授けられた舎利弗・迦葉・阿難・羅(らごら)などの人々は、過去の遠い遠い三千塵点劫の昔、大通智勝仏という仏の第十六番目の王子であった菩薩、すなわち今の釈迦牟尼仏から法華経を習ったのであるが、悪縁に迷わされて法華経を捨てる心を起こし、かくして華厳経・般若経・大集経・涅槃経・大日経・深密経・観無量寿経等へ移ったり、阿含小乗経へ移ったりしている間に、次第に堕ち行きて、ついには天上界・人間界、さらに三悪道へと堕ちてしまった。  

それゆえに三千塵点劫の永い間、たいていは無間地獄、少しの間は七大地獄、たまには一百余の地獄、まれには餓鬼・畜生・修羅界などに生まれ、三千塵点劫を経てようやく人間界・天上界に生まれたのである。  

それゆえ法華経の第二巻の譬喩品には、「常に地獄にあっては花園や物見台で遊んでいるようであり、そのほかの悪道にあっては自分の家にいるようである」と説かれている。  

十悪を犯した人は等活地獄・黒縄地獄などに堕ちて五百歳もしくは一千歳を経る。五逆罪を犯した人は一中劫の永いあいだ無間地獄に堕ちてまた生まれてくる。  

ところがどういうわけか法華経を捨てる人は、捨てる時には五逆罪の父母を殺す罪などのように甚だしくは見えないものの、無量劫の永いあいだ無間地獄に堕ちたまま出られないのである。  

たとえ父母を一人・二人・十人・百人・千人・万人・十万人・百万人・億万人殺したとしても、どうして三千塵点劫のあいだ地獄に堕ちることがあろう。  

また仏を一仏・二仏・十仏・百仏・千仏・万仏ないし億万仏を殺したとしても、どうして五百塵点劫の永いあいだ無間地獄に堕ちることがあろうか。ところが法華経を捨てた罪によって、三周の声聞が三千塵点劫のあいだ無間地獄に堕ち、諸大菩薩が五百塵点劫のあいだ無間地獄に堕ちたというのは、きわめて非常なことであると思われる。  

結局のところは、拳で虚空を打っても痛くないが、石を打てば痛いようなもので、悪人を殺す罪は浅いが、善人を殺す罪は深い。  

また他人を殺すのは拳で泥を打つようなもの、父母を殺すのは石を打つようなものである。  

鹿に向かって吠える犬は頭はわれないが、師子に向かって吠える犬は腸が腐る。  

日と月とをのむ修羅は頭が七分に破れ、仏を打った提婆は大地が割れて地獄に堕ちた。  

つまりその相手によって罪に軽重がみられるのである。  

そうしてみると、この法華経は一切諸仏の眼目であり、教主釈尊の本師である。  

それゆえ一字一点でも法華経を捨てる者があれば、その罪は千万の父母を殺した罪にも過ぎ、十方世界の仏の身から血を出す罪にも超えるのであり、したがって、このように三千塵点劫、五百塵点劫という永いあいだ無間地獄に堕ちるのである。  

ところでこうした法華経の尊さについてはさておくこととして、法華経の経文通りに実践する行者に値うことはなおさら難しいことである。  

たとえ一眼の亀が栴檀の浮木に値うことはできても、蓮の根の糸で須弥山を虚空に懸けることはできても、この法華経を経文通りに説く人に値うことは困難である。  

さて慈恩大師という人は玄奘三蔵の御弟子で、太宗皇帝の御師範である。  

インド・中国の学問を暗に覚え、一切経を胸に蔵し、仏舎利を筆の先から降らし、から光を放ったほどの聖人である。  

当時の人は日月のように恭敬し、後代の人も眼目のように渇仰したのであるが、伝教大師はこれに対して法華秀句に「法華経を讃めても、還って法華経の心を殺すものである」と批判されている。  

すなわち慈恩大師は法華玄賛を造って法華経を讃めているようであるが、法華経の本意を心得ていないから、却って法華経の心を殺す人になったというのである。  

善無畏三蔵はインドの烏仗那国の国王であったが、位を捨てて出家し、インド五十余国を修行して顕密二教を究め、後には中国に渡って玄宗皇帝の御師となられた。  

中国・日本の真言師はいずれもこの人の流れを汲まない者はいない。  

かくも尊き人であるが、あるとき頓死して閻魔王の責めに値われた。  

どうしてそうなったのか、誰も知らないようであるが、日蓮が勘えるところでは、善無畏三蔵は元来は法華経の行者であったが、大日経を見てから法華経よりも勝れた経であると言ったからである。  

そうであるから、舎利弗・目連等の声聞が三千塵点劫、五百塵点劫のあいだ無間地獄に堕ちたのは、十悪・五逆の罪でもなく、謀反などの八虐を犯したためでもない。  

ただ悪知識に値って法華経の信心を捨てて権経へ移ったためである。  

天台大師は法華玄義第六巻に釈して、「もし悪友に値えば、すなわち本心を失う」と言われている。  

本心とは法華経を信ずる心、失うとは法華経の信心を捨てて余経へ移ることである。  

だから法華経の如来寿量品には「どんなに良薬を与えても、どうしても服そうとしない」とあり、それを天台大師は法華玄義第六巻に、「本心を失っている者は良薬を与えても、どうしても服そうとせず、生死のに流浪して他国に逃げゆく」と解釈している。  

以上のことから、法華経を信ずる人がもっとも恐れなければならないのは、賊人・強盗・夜打・虎狼・師子等ではなく、また近ごろの蒙古の襲来でもなく、まさしく法華経の行者を迫害する人々なのである。  

そもそもこの世界は第六天の魔王の所領であり、一切衆生は無始の過去からその魔王の眷属である。  

魔王は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道の中に二十五有という牢をしつらえて、その中へ一切衆生を入れるばかりでなく、妻子という縄で縛り、父母・主君という網を天に張り、貪・瞋・痴という三毒の酒を飲ませて、仏性の本心を狂わせるのである。  

ただ悪の肴ばかり人々に勧めて三悪道の大地に倒れさせ、たまに善の心がある者には妨害行為をするのである。  

法華経を信ずる人を何とかして悪道へ堕そうと思うのであるが、もしそれが叶わなければ漸次にして誘おうとして、まず法華経に似た華厳経へと堕すのである。  

華厳宗の学匠である杜順・智儼・法蔵・澄観等の人々がすなわちそれである。  

また般若経へ誘い堕した悪知識は三論宗の学匠の嘉祥・僧詮等であり、深密経へ誘い堕した悪知識は法相宗の学匠、玄奘・慈恩であり、また大日経へ誘い堕した悪知識は真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等であり、また禅宗へ誘い堕した悪知識は達磨・慧可等であり、また観経へ誘い堕した悪知識は、浄土教の善導・法然等である。  

これらはいずれも第六天の魔王が智者の身に入って善人をたぶらかすのであって、法華経第五巻の勧持品に「悪鬼がその身に入る」と説かれているのは、まさしくこのことである。  

たとえ次の生に仏の位を継ぐという等覚の菩薩でさえ元品の無明という大悪鬼がその身に入って、法華経の妙覚の功徳を妨げるのであるから、ましてそれ以下の人々においてはなおさらである。  

また第六天の魔王は、妻子の身に入って親や夫をたぶらかしたり、国王の身に入って法華経の行者を迫害したり、父母の身に入って孝養をつくす子を責めたりする。  

釈尊は、悉達太子であったとき、その位を捨てて出家しようとされたが、耶輸陀羅妃(やしゆだらひ)には羅羅を懐妊されたので、父の浄飯王はこの子が生まれてから出家せよといさめられた。  

そこで魔王は太子の出家を妨げるために、その子を押さえて懐妊六年に及んだのである。  

舎利弗は昔、禅多羅仏の末法の世の時、菩薩の修行をして六十劫を経て、あと四十劫のあいだ修行すれば百劫になるところを、第六天の魔王は舎利弗の菩薩の修行が成就すればみずからがあぶないので、それを妨害しようと思い、婆羅門のすがたに現じてその眼を与えよと乞い求めたのである。  

舎利弗はその通り一眼を与えたが、婆羅門がその眼を踏みにじったのを見て怒りの心を起こし、ついに菩薩の修行を退転し、その結果、舎利弗は無量劫のあいだ無間地獄に堕ちたのであった。  

大荘厳仏の末法の世の六百八十億の檀那等は、邪見の苦岸比丘等の四比丘にたぶらかされて、真実なる普事比丘を迫害したために大地微塵劫の永いあいだ無間地獄に堕ちたのであった。  

一切明仏(師子音王仏)の末法の世の男女等は、勝意比丘という戒律を持っているように見えるが実際には仏の真意を弁えていない悪知識に師事して、諸法実相の教えを説いていた喜根比丘を虚妄邪見の説と笑して誹謗したために、無量劫のあいだ無間地獄に堕ちたのであった。  

今また日蓮が弟子檀那等にとって、これらの事例はまさにぴったりと当てはまる。  

法華経の法師品には「如来の在世でさえ怨嫉が多い、まして滅後はなおさらである」とあり、また安楽行品には「一切の世間には、怨が多くてこの経は信じ難い」とある。  

涅槃経巻第十七の梵行品には「善業の因縁によって地獄に堕ちず、現世に思いがけない死の災厄を受けたり、他人から責められたり、ののしられはずかしめられたり、むち打たれたり、投獄されたり、飢餓の苦しみに悩まされるといった軽い罪の報いを受けることで、過去の罪業を償うことができる」と説かれる。  

般泥経巻第四の四依品には「衣服に不足したり、飲食が粗末であったり、財産を求めても得られず、貧乏で卑賤な心や邪まな心をもった親の家に生まれたり、あるいは国王の迫害や世間のさまざまな迫害に遭遇するが、これらは過去の罪業の苦報を現世に軽く受けているのであり、それは正法を護っている功徳の力によるものである」とある。  

これらの経文の心は、我々は過去世において正法の行者を迫害したので、その罪によって未来には大阿鼻地獄に堕ちなければならないが、今生に信仰して正法を強盛に受持するならば、その功徳により却って未来の大苦を取り越してこの世で小苦に値うというのである。  

この経文には、過去の謗法によってさまざまの果報を受けるなかに、あるいは貧家に生まれ、あるいは邪見の家に生まれ、あるいは国王の迫害に値うと説かれている。その邪見の家というのは、謗法の父母の家のこと、王難に値うというのは悪王の治世に生まれ値うことで、この二つの大難はまさしく貴殿等の身に当たっている。  

今貴殿等は過去の謗法の罪を滅するために邪見の父母に責められているのである。  

また法華経の行者を迫害する国王の時代に生まれ値うたのである。経文は赫々として明らかにそのことを証拠立てているではないか。  

我が身が過去に謗法の者であったことを疑ってはならない。  

このことを疑って現世の軽い苦悩を忍ぶことができず、慈父が責めるからといって安易に法華経を捨てるならば、我が身が地獄に堕ちるばかりでなく、悲母も慈父も大阿鼻地獄に堕ちて共々の悲しみとなることは疑いない。大道心というのはこのことである。  

貴殿等はずいぶんと法華経を信ぜられたのであるから、現世において過去の重罪を招き出したのである。  

たとえてみれば、それはちょうど鉄をよくよく鍛錬するとその疵(きず)が顕れるようなものである。  

石は焼けば灰となってしまうが、金は焼けば真金となる。  

今度こそ真実の法華経の信心の功徳が顕れて、法華経守護の十羅刹女も貴殿等をお護りになるにちがいない。  

帝釈天が鬼神となって法を求めていた雪山童子を試したように、尸毘王を試した鳩は毘沙門天であったように、十羅刹女が貴殿等の信心を試そうとして父母の身に入って迫害するのかもしれない。  

それにつけても信心が薄くては後悔することになろう。また前車のくつがえるは後車の誡めとなるものである。  

今の世の状態は自然と道心の起こるべき時である。  

この世の厭わしさは何としても厭いきれるものではない。  

日本国の人々が必ず大いなる苦に値わなければならないことは目に見えている。まさに眼前の事実である。  

文永九年二月の十一日の鎌倉における北条時輔の乱の時は、あたかも花が大風に乱れるように、絹の織物が大火に焼かれるようで、真にはかなく、悲しい出来事であった。  

そんなありさまを見てどうしてこの世を厭わないでいられようか。  

文永十一年十月の蒙古襲来の時、壱岐・対馬の人々が蒙古のために一時に殺されたことなどは、とうてい他人事とは思われないであろう。  

そのころ鎌倉から九州まで打手に向かった人々の嘆きはいかばかりであったか。  

年老いた親、幼い子、若い妻、大事な住まいをうち捨てて、手がかりのない海辺をまもっているのであるが、雲を見ては敵の軍旗かと疑い、釣船を見ては敵の兵船かと驚くほどおそれる。  

日に一、二度は山に登り、夜ごとに三、四度馬に鞍を置いて逃げ惑う状態は、この世さながらの修羅道であった。  

今貴殿等が父親から責められるのも、結局のところは国主が法華経の敵となっているからである。  

国主が敵となったのは、持斎・念仏者・真言師等が法華経を誹謗したことに端を発しているのである。  

今度こそは迫害を堪え忍んで法華経の御利益を試されるがよい。  

日蓮もまた強盛に仏天にお祈り申し上げるところである。  

けっして畏れ退く心や態度があってはならない。  

男はともかく、きっと女人は心弱き者であるから、おそらく女房たちは心を翻すこともあるかもしれない。  

強盛に歯をいしばり、どんなことがあっても退転してはならない。  

たとえば日蓮が平左衛門尉に対して憚ることなく諫めたように、少しも畏れる心があってはならない。  

和田義盛の子等は、父が北条義時を攻めて一族が戦死し、三浦泰村の子等は、父の若狭守が北条時頼と戦ってすべてが敗死し、あるいは平将門、安倍貞任の家来なども、仏道とは異なるけれども、それぞれ恥を思って命を捨てたではないか。  

人間はどうしても一度は死なねばならない。卑怯な態度などをとって他人から笑われてはなるまいぞ。  

あまりに不安に思われるので、なお一つ大事の物語を申し上げよう。  

昔、中国の殷の時代、孤竹国の王に伯夷と叔斉という二人の王子があった。  

父の王は弟の叔斉に王位を譲られたが、父の死後、叔斉は即位しようとしない。  

伯夷は弟にご即位なされと言うと、叔斉は兄上こそご即位下されと言う。  

伯夷がそれでは親の遺言に背くことになるではないかと言うと、叔斉は親の遺言はもっともであるが、どうして兄を差し置いて自分が即位できようかと辞退する。  

こうして互いに譲り合った末、ついに二人ともに父母の国を捨てて他国へと行ってしまった。  

国を去って周の文王に仕えたところ、文王は殷の紂王に殺害され、その子の武王は父の死後百日と経たないうちに戦を起こして殷の紂王を攻撃した。  

そのとき伯夷・叔斉は武王の馬の口にとりつき、親の死後三年を経ずして戦を起こすのは不孝ではないかと諫めた。武王はそれを聞いて大いに怒り、伯夷・叔斉を殺そうとしたのであるが、太公望がこれを制したので事なきを得た。  

そして伯夷・叔斉の二人は武王のもとを去って首陽山に隠れ、蕨(わらび)を採って命をいでいた。  

そこへ王麻子という者と道で行き会い、事の次第を話したところ、王麻子は、そうするとその蕨も周の武王のものではないかと責めたので、二人はそのときから蕨を食べることもやめてしまった。  

しかしながら天は賢人を見捨てないのが習いであるから、白鹿に身を現じてその乳で二人を養った。  

ところがあるとき叔斉がこの白鹿は乳がこんなに美味いから肉もさぞかし美味いだろうと言った。  

伯夷はそれを制止したけれども、天はそれを聞き、以来二度と白鹿は来なくなって二人は餓死してしまった。  

このように一生のあいだ賢人として暮らした人でさえ、ただ一言でその身を亡ぼすこともある。  

貴殿等の御心の内はいかがなものであろうか。気がかりでならないのである。  

釈迦如来が太子であられた時、父の浄飯王は太子を惜しんで出家を許されなかった。  

そして城の四門に二千人の兵を配置して監視させたけれども、ついに親の心に背いて出家をなさった。  

世間においては、一切の事は親に随わなければならないが、仏道修行においては親に随わないほうがかえって孝養となるのである。  

それゆえ心地観経には孝養の根本について、「親の恩愛を棄てて仏法に入るのが、真実の報恩である」と説かれている。  

すなわちこの経文の意味するところは、仏法の真実の道においては、父母の心に随わないで出家して仏になるのが本当の報恩なのである、ということである。  

世間のことにしても、親が謀反を起こす場合などは、かえって随わないほうが孝養であると、孝経という儒教の書物に書かれている。  

天台大師も法華経の三昧に入られた時、亡くなった父母が左右の膝にとりついて仏道修行を妨げようとした。  

これは天魔が父母の形となって妨害したのである。  

伯夷・叔斉が一言で身を亡ぼした例は前に述べたが、さらにまた大事の物語がある。  

日本国人王第十六代の応神天皇は今の八幡大菩薩である。  

この天皇に二人の御子がおられた。  

長男は仁徳天皇、次男は宇治王子である。  

応神天皇は次男の宇治王子に位を譲られた。  

天皇が崩御ののち宇治王子は、兄君がご即位下されと言い、兄のほうはどうして父の遺言を用いないのかと言い、互いに譲り合って三年間、天皇の空位が続いた。万民の嘆きは一通りではなく、天下一同の災いであったので、宇治王子は自分が生きているために兄君が即位できないのであろうと思い余って自害された。  

仁徳は非常に嘆き悲しみ、深く沈みこまれたので、宇治王子は蘇生していろいろと言い遺し、すぐまた息を引き取られた。  

こうして仁徳天皇が即位されてからは、国内は穏やかで、新羅・百済・高麗も日本国に随い、毎年八十艘の貢物を献上したとのことである。  

賢王の中でも兄弟仲のよくない例は多くあるのに、どうした因縁で仁徳と宇治王子との間は、かくも美しかったのであろう。  

法華経の妙荘厳王本事品に説かれてある浄蔵・浄眼の二人の太子が生まれ変わったのであろうか。ひいては薬王菩薩・薬上菩薩の生まれ変わりであろうか。  

兄の大夫志殿が父上から勘当されたことは承ったが、弟の兵衛志殿は今度はよもや兄に付くことはあるまい。  

そうなるとますます大夫志殿の父上からの勘当は並大抵のことでは許されないと思っていたが、この童子鶴王の申すのは本当であろうか。  

兵衛志殿も兄と御同心であると言う。あまりに尊く思うので、別の消息を書き付けることとする。  

どうか後々までの物語として語り伝えられたい。  

どうして、これにすぎたる物語があるだろうか。  

大唐西域記という書物に次のような物語が書かれている。  

インドの婆羅斯国施鹿林というところに世俗との交わりを断った一人の隠士があって、仙人の術を得ようとしていた。  

すでに瓦礫を宝に変じてみせたり、人や家畜の形を変えたりすることができたけれども、まだ風雲に乗って仙人の宮殿に出入りすることはできなかった。  

そこでこの術を成就するために、一人の気性が強く、威勢をもった烈士に話をもちかけて、長刀を持たせ息を殺し無言のままで土を盛って作った壇の隅に立たせた。  

今晩から明朝にいたるまで物を言わなければ、仙人の術は成就するというのである。  

仙人の術を求める隠士は壇の真中に坐し、手に長刀を持ち口には神呪を誦している。  

そしてお互いにたとえ死ぬようなことがあっても物を言うまいと約束したので、烈士は死んでも物言わぬと誓った。  

こうしてすでに夜半を過ぎて明け方になった時、何を思ったのか、烈士は突然大きな声を出して叫んだ。  

それがために無言の修行は失敗し、仙人の術を成就することができなかった。  

そこで隠士は烈士に向かって、どうして約束を破ったのか、残念なことではないかと非難した。  

烈士は嘆いて答えた。  

少し眠ったところが、昔仕えた主人が来て、なぜ物を言わないのかと責めたけれども、師との約束が重いので忍んで物を言わなかった。  

そのとき彼の主人は怒って頸を刎ねると言ったけれどもまだ物を言わなかった。それゆえついに頸を刎ねられてしまった。  

中陰をさまよう自分の死骸を見れば、さすがに残念で嘆かわしかったけれども、それでも物を言わなかった。  

やがて南インドのバラモンの家に生まれた。  

懐胎の時も出生の時もその苦は忍びがたいほどであったが、それでも息を出さず物も言わなかった。  

すでに成人して妻を娶り、また親が死んだり、子供が生まれたりしたので、悲しかったこともあり、悦ばしかったこともあったが物を言わなかった。  

こうして六十五歳の高齢になった。  

それでも物を言わないので、わが妻が語ることには、あなたがもし物を言わなければあなたの愛する子を殺してしまうと言った。  

そのとき、もはやこのような老齢で、もしこの子を殺されたならば、再び子をもうけることはできまいと思って、思わず声を出してしまい、その声に驚いて眠りからさめたのである、と語ったのである。  

師の隠士は、「それは致し方のないこと、我も汝も悪魔にたぶらかされて仙人の術を成就できなかったのである」と言うと、烈士は大いに嘆いて「私の心が弱かったために、師の仙法を成就することができなかったのは申し訳ない」と詫びた。  

すると隠士は「それは私がいけなかったのだ。前もって誡めておかなかったばっかりに」と言ったけれども、烈士は師の恩に報いることができなかったことを嘆き、とうとう思い死にに死んでしまった、という物語が書かれている。  

仙人の法というのは、中国では儒教を母胎とし、インドでは外道の法の一部である。  

この仙人の法は、仏教の中では言うに足らぬ小乗阿含経にさえ及ばないのであるから、その上の通・別・円の三教に及ぶはずもなく、まして法華経に及ばないことはもちろんである。  

このような浅い教えであっても成就しようとすると、四魔が競い起こり妨害して成就させないようにするのであるから、まして法華経の極理である南無妙法蓮華経の七字を、始めてたもたせるために日本国に弘通している日蓮の弟子檀那には、大難が興起することは必然であり言葉にも尽くしがたいのである。  

ただ心をもって推量するしかあるまい。  

天台大師の摩訶止観は、天台大師一期の大事であり、釈尊一代聖教の肝心である。  

仏法が中国に渡ってから五百年あまりのころ、南三北七といわれる十師が活躍し、その智慧は日月にも斉しく、その徳は四海に響いたほどであったけれども、いまだ一代聖教の浅深や勝劣や前後、次第には迷っていた。  

そのとき天台大師は再び釈尊の仏教を明らかにしたばかりでなく、妙法蓮華経の五字の蔵の中から一念三千という如意宝珠を取り出して、インド・中国・日本の三国の一切衆生に普く与えられたのである。  

この止観の法門は中国で初めて明らかにされたものであって、インドの論師達も明らかにし得なかったことである。  

それゆえ章安大師は、摩訶止観の冒頭に、「止観の明静なる法門は、いまだかつて明らかにされたことはなかった」と言い、また法華玄義第三巻には、「インドの大論も比べものにならないほどである」とも釈されている。  

その中でも、摩訶止観第五巻に明かされる一念三千の法門は、いっそう立ち入った深い法門であり、この法門を口にすれば必ず魔障が現われる。  

魔障が競い起こることで、逆にそれが正法であることが分かるのである。  

すなわち摩訶止観第五巻には「止観の修行とさとりとが進んでくると、三障四魔が次々と入り混じって競い起こり、さわりをなしてくる。  

しかし断じてそれに随ってはならない。また畏れてもならない。  

これに随えば悪道に堕ち、これを畏れれば正法を修することができない」とある。  

この文はまさしく日蓮が身をもって体験するところであるばかりでなく、我が一門にとっての明鏡でもある。  

つつしんで習い伝えて未来に法華経信仰に生きる者たちの資糧としなければならない。  

摩訶止観にいう「三障四魔」の三障というのは、煩悩障・業障・報障のことで、煩悩障とは貪・瞋・痴からくる妨げ、業障とは妻子等による妨げ、報障とは国主・父母等による妨げである。  

また四魔のうちの天子魔というのは第六天の魔王の妨げである。  

今日本国の止観修行者の中で、我も止観を修行している、私も止観を修行しているなどと自慢している人がいるが、はたしてそれらの誰に三障四魔が次々と起こっているであろうか。  

「これに随えば悪道に堕ちる」と言われているのは、ただ地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことばかりでなく、仏界を除く人間界・天上界なども含んだ九界のことを総称して悪道というのである。  

したがって法華経以外の華厳・阿含・方等・般若・涅槃・大日経等や、天台宗以外の七宗の人々は、すべて悪道に向かわせる獄卒である。  

天台宗の人々の中でも、表面的には法華経を信じているようで、却って人を法華経以前の経々へ導く者は、人を悪道に向かわせる地獄の鬼である。  

 

今貴殿等は前に述べた隠士と烈士との二人が仙法を求めたようなもので、一人が欠けても仏法を成就することができない。  

それはたとえてみれば鳥の両翼や人の両眼のような関係で、互いに助け合って存在しているものである。  

また二人の女房達は貴殿等によって導かれる後援者である。  

およそ女性という存在は相手に随いながらも、かえって相手を随えるものである。  

夫が楽しめば妻も栄えるし、夫が盗人ならば妻も盗人となるのである。  

こうした夫婦の契りはこの世ばかりのことではない。  

生々世々に影と身とのように、華と果とのように、根と葉とのように相添うものである。  

木に棲む虫は木を食し、水に棲む魚は水を口にしている。  

芝が枯れれば蘭が嘆き、松が栄えれば柏は喜ぶと言われているが、草木でさえそうである。  

比翼という鳥は身は一つで頭は二つあり、二つの口から入る物が一つの身体を養うのである  

。比目という魚は雌雄一目ずつしかないので一生のあいだ離れることはない。  

夫と妻とはまさにそのようなものであって、法華経の信仰を全うするためには、たとえ夫に殺害されるようなことがあっても後悔してはならない。  

共々同じ心になって夫を諫めるならば、法華経提婆品で成仏の姿を示した八歳の竜女の跡を継ぎ、末代悪世の女人の成仏の手本ともおなりになるであろう。  

そのようになさるならば、たとえどのようなことがあっても、日蓮が法華経守護の薬王・勇施の二聖、持国・多聞の二天、十羅刹女、釈迦・多宝の二仏に申しあげることによって、後生において順次に成仏させてくださるであろう。  

「心の師とはなっても、心を師としてはならない」とは六波羅蜜経の文である。  

たとえどのような難儀なことがあっても、それは夢と思って、ただ法華経のことばかり念じなさい。  

ことにまた日蓮の法門は、以前には信じがたかったけれども、最近は前に予言したことがすでに符合したので、理由なく謗った人たちも後悔して信ずる心がみられるようになった。  

たとえこれから後に信ずる人々があっても、それらと貴殿等と同様に思えるものではない。  

最初は信じていたけれども、やがて世間からののしられることを恐れて信仰を捨ててしまった人々が数知れずいる。  

そればかりか、その捨てた人たちの中には、最初から謗った人よりも強盛に謗る人が、またたくさんいるのである。  

釈尊在世においても、善星比丘等は最初は信じていたけども、後になって捨てたばかりでなく、かえって仏を謗ったので、仏の力も及ばず無間地獄に堕ちたのである。  

この手紙は、特に弟の兵衛志殿へ進上いたす。  

また兄の太夫志殿の女房と兵衛志殿の女房にも、よくよく申し聞かせなさい。くれぐれも申し聞かせなさい。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。  

 

文永十二年四月十六日  

日 蓮  花押  

   

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