如来滅後後五百歳始観心本尊鈔
(にょらいめつごごごひゃくさいしかんじんほんぞんしょう)
本朝沙門 日蓮 撰
摩訶止観の第五に云く(世間と如是と一なり、開合の異なり)「夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す。此三千一念の心に在り若心無くんば已みなん。介爾も心あれば即ち三千を具す。乃至所以に称して不可思議境と為す。意此に在り。」等云云(或本に云く一界に三種の世間を具す)。
問て曰く、玄義に一念三千の名目を明すや。
答へて曰く、妙楽の云く「明さず」。
問て曰く、文句に一念三千の名目を明すや。
答へて曰く、妙楽の云く「明さず」。
問て曰く、其の妙楽の釈如何。
答へて曰く「並びに未だ一念三千といわず」等云云。
問て曰く、止観の一二三四等に一念三千の名目を明すや。
答へて曰く、之無し。
問て曰く、其証如何。
答へて曰く、妙楽の云く「故に止観の正く観法を明すに至つて、並びに三千を以て指南と為す」等云云。
疑つて云く、玄義の第二に云く「又一法界に九法界を具すれば、百法界に千如是」等云云。文句の第一に云く「一入に十法界を具すれば、一界に又十界あり。十界に各々十如是あれば即ち是一千」等云云。観音玄に云く「十法界交互にすれば即ち百法界有り。千種の性相、冥伏して心に在り、現前せずと雖も宛然として具足す」等云云。
問て曰く、止観前の四に一念三千の名目を明すや。
答へて曰く、妙楽の云く「明さず」。
問て曰く、其釈如何。
答ふ、弘決の第五に云く「若正観に望むれば全く未だ行を論ぜず、亦二十五法に歴て、事に約して解を生じ、方に能く正修の方便とするに堪へたり。是の故に前の六をば皆解に属す」等云云。又云く「故に止観の正しく観法を明すに至つて、並びに三千を以て指南と為す。乃ち、是れ終窮究竟の極説なり。故に序の中に、説己心中所行法門と云ふ、良に以あるなり。請う尋ね読まん者心に異縁無かれ」等云云。
夫れ智者の弘法三十年、二十九年の間は「玄」「文」等の諸義を説いて、五時、八教、百界、千如を明し、前五百余年の間の諸非を責め、並びに天竺の論師の未だ述べざるを顕はす。章安大師の云く「天竺の大論尚ほ其類に非ず、震旦の人師何ぞ労はしく語るに及ばん。此れ誇耀に非ず、法相の然らしむるのみ」等云云。墓ない哉天台の末学等は、華厳、真言の元祖の盗人に一念三千の重宝を盗み取られて還つて彼等が門家となりぬ。章安大師兼て此の事を知つて歎いて言く「斯の言若し堕なば将来は悲しむ可し」云云。
問て曰く、百界千如と一念三千と差別如何。
答へて云く、百界千如は有情界に限り、一念三千は情非情に亙る。
不審して云く、非情にも十如是亙るならば、草木に心あつて有情の如く成仏を為す可きや如何。
答へて曰く、此の事難信難解なり。天台の難信難解に二あり。一には教門の難信難解、二には観門の難信難解なり。其の教門の難信難解とは、一仏の所説に於て爾前の諸経には、二乗と闡堤とは未来に永く成仏せず。教主釈尊は始めて正覚を成じ、法華経の迹本二門に来至して彼の二説壌る。一仏二言水火なり、誰人か之を信ぜん。此れは教門の難信難解なり。観門の難信難解とは、百界千如一念三千は、非情の上の色心の二法十如是是なり。爾りと雖も木画の二像に於ては、外典、内典共に之を許して本尊と為す。其義に於ては天台一家より出たり。草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり。
疑つて云く、草木国土の上の十如是の因果の二法は何れの門に出たるや。
答へて曰く、止観の第五に云く「国土世間に亦十種の法を具す、所以に悪国土相性体力」等と云云。釈籤の第六に云く「相は唯だ色に在り性は唯だ心に在り、体力作縁は義、色心を兼ぬ、因果は唯だ心、報は唯だ色に在り」等云云。金・論に云く「乃ち是れ一草一木一礫一塵各一仏性、各一因果あり、縁了を具足す」等と云云。
問て曰く、出処既に之を聞く、観心の心如何。
答へて曰く、観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是れを観心と云ふなり。譬へば他人の六根を見ると雖も、未だ自面の六根を見ざれば、自具の六根を知らず、明鏡に向ふの時、始めて自具の六根を見るが如し。設ひ諸経の中に、処処に六道並びに四聖を載すと雖も、法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば、自具の十界、百界千如、一念三千を知らざるなり。
問て曰く、法華経は何れの門ぞ、天台の釈は如何。
答へて曰く、法華経の第一方便品に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云。是れは九界所具の仏界なり。寿量品に云く「是の如く我れ成仏してより已来、甚だ大に久遠なり。寿命無量阿僧祇劫、常住にして滅せず。諸の善男子、我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず、復上の数に倍せり」等云云。此の経文は仏界所具の九界なり。経に云く「提婆達多(乃至)天王如来」等云云。地獄界所具の仏界なり。経に云く「一を藍婆と名く(乃至)汝等但だ能く法華の名を受持せん者を擁護せん、福量る可からず」等云云。此れ餓鬼界所具の十界なり。経に云く「龍女(乃至)等正覚を成ず」等云云。此れ畜生界所具の十界なり。経に云く「波稚阿修羅王(乃至)一偈一句を開いて、阿耨多羅三藐三菩提を得」等云云。修羅界所具の十界なり。経に云く「若し人仏の為の故に(乃至)皆已に仏道を成ず」等云云。此れ人界所具の十界なり。経に云く「大梵天王(乃至)我等も亦是の如く、必ず当に作仏することを得べし」等云云。此れ天界所具の十界なり。経に云く「舎利弗(乃至)華光如来」等云云。此れ声聞界所具の十界なり。経に云く「其の縁覚を求むる者、比丘、比丘尼(乃至)合掌し敬心を以て、具足道を聞かんと欲す」等云云。此れ即ち縁覚界所具の十界なり。経に云く「地涌千界(乃至)真浄大法」等云云。此れ即ち菩薩界所具の十界なり。経に云く「或は己身を説き或は他身を説く」等云云。即ち仏界所具の十界なり。
問て曰く、自他面の六根共に之を見る、彼此の十界に於ては、未だ之を見ず、如何が之を信ぜん。
答へて曰く、法華経法師品に云く「信じ難く解し難し」。宝塔品に云く「六難九易」等云云。天台大師云く「二門悉く昔と反すれば、難信難解なり」。章安大師云く「仏此れを将て大事と為す。何ぞ解し易きことを得べけんや」等云云。伝教大師云く「此の法華経は最も為れ難信難解なり、随自意の故に」等云云。
夫れ在世の正機は過去の宿習之厚き上、教主釈尊、多宝仏、十方分身の諸仏、地涌千界、文殊、弥勒等、之を扶けて諌暁せしむるに、猶信ぜざる者之あり。五千席を去り人天移さる。況や正像をや。何に況や末法の始めをや。汝之を信ぜば正法に非じ。
問て曰く、経文並びに、天台、章安等の解釈疑網なし。但し火を以て水と云ひ、墨を以て白しと云ふ、設ひ仏説たりと雖も信を取り難し。今数々地面を見るに、但だ人界に限つて余界を見ず。自面も亦復是の如し、如何が信心を立てんや。
答ふ、数々地面を見るに或時は喜び、或時は瞋り、或時は平かに、或時は貪り現じ、或時は痴現じ、或時は諂曲なり。瞋るは地獄、貪るは餓鬼、痴は畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平かなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏して現れずとも、委細に是を尋ねばこれ有る可し。
問て曰く、六道に於ては分明ならずと雖も粗之を聞くに之を備ふるに似たり。四聖は全く見えず如何。
答へて曰く、前には人界の六道之を疑ふ。然りと雖も強ひて之を言て相似の言を出せしなり。四聖も又爾る可きか。試みに道理を添加して、万が一之を宣べん。所以は世間の無上眼前に有り、豈に人界に二乗界無からんや。無顧の悪人も猶妻子を慈愛す、菩薩界の一分なり。但だ仏界計りは現じ難し、九界を具するを以て強て之を信じ、疑惑せしむること勿れ。法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」。涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼ありと雖も名けて仏眼と為す」等云云。末代の凡夫出生して法華経を信ずるは、人界に仏界を具足する故なり。
問て曰く、十界互具の仏語分明なり。然りと雖も我等が劣心に、仏法界を具すること信を取り難き者なり。今時之を信ぜずんば、必ず一闡提とならん。願はくば大慈悲を起して之を信ぜしめ、阿鼻の苦を救護したまへ。
答へて曰く、汝既に唯一大事因縁の経文を見聞して之を信ぜざれば、釈尊より已下四依の菩薩、並びに末代理即の我等、如何が汝が不信を救護せんや。然りと雖も試みに之を言はゞ、仏に値ひ奉りて覚らざる者の、阿難等の辺にして得道するの者之有ればなり。其の機に二あり。一には仏を見たてまつり、法華にして得道す。二には仏を見たてまつらざれども、法華にて得道するなり。其の上仏教已前の漢土の道士、月支の外道、儒教、四韋陀等を以て縁と為して正見に入る者之あり。又利根の菩薩、凡夫等の華厳、方等、般若等の諸大乗経を聞きし縁を以て、大通久遠の下種を顕示する者多多なり。例せば独覚の飛花落葉の如し。教外の得道とは是なり。過去の下種結縁無き者の権小に執着する者は、設ひ法華経に値ひ奉るとも小権の見を出でず。自見を以て正義と為るが故に、還つて法華経を以て或は小乗経に同じ、或は華厳、大日経等に同じ、或は之を下す。此れ等の諸師は儒家、外道の賢聖より劣れる者なり。此れ等は且らく之を置く。
十界互具之を立つるは、石中の火、木中の花、信じ難けれども縁に値ふて出生すれば之を信ず。人界所具の仏界は、水中の火、火中の水、最も甚だ信じ難し。然りと雖も、龍火は水より出で、龍水は火より生ず。心得られざれども、現証あれば之を用ゆ。既に人界の九界之を信ず、仏界何ぞ之れを用ひざらん。尭舜等の聖人の如きは、万民に於て偏頗なし、人界の仏界の一分なり。不軽菩薩は所見の人に於て仏身を見る。悉達太子は人界より仏身を成ず。此れ等の現証を以て之を信ず可きなり。
問て曰く、教主釈尊は(此より堅固に之れを秘す)三惑已断の仏なり。又十方世界の国主、一切の菩薩、二乗、人、天等の主君なり。行の時は梵天左に在り、帝釈右に侍べり、四衆八部後に従ひ、金剛前に導き、八万法蔵を演説して、一切衆生を得脱せしむ。是の如き仏陀何を以て、我等凡夫の己心に住せしめんや。
又迹門、爾前の意を以て之れを論ずれば、教主釈尊は始成正覚の仏なり。過去の因行を尋ね求むれば、或は能施太子、或は儒童菩薩、或は尸毘王、或は薩垂王子、或は三祇百劫、或は動喩塵劫、或は無量阿僧祇劫、或は初発心の時、或は三千塵点等の間、七万五千六千七千等の仏を供養し、劫を積み行満じて、今の教主釈尊と成りたまふ。是の如き因位の諸行は皆我等が己心所具の菩薩界の功徳か。
果位を以て之れを論ずれば、教主釈尊は始成正覚の仏、四十余年の間、四教の色心を示現し、爾前、迹門、涅槃経等を演説して、一切衆生を利益したまふ。所以華厳の時十方台土の盧舎那、阿含経の三十四心断結成道の仏、方等、般若の千仏等、大日、金剛頂等の千二百余尊、並びに迹門宝塔品の四土色身、涅槃経の或は丈六と見る、或は小身大身と現る、或は盧舎那と見る、或は身虚空に同じと見る。四種の身乃至八十御入滅、舎利を留めて正像末を利益したまふ。
本門を以て之れを疑(擬)わば、教主釈尊は五百塵点已前の仏なり。因位も又是の如し。其れより已来十方世界に分身し、一代聖教を演説して塵数の衆生を教化したまふ。本門の所化を以て迹門の所化に比校すれば、一Hと大海と一塵と大山となり。本門の一菩薩を、迹門の十方世界の文殊、観音等に対向すれば、猿猴を以て帝釈に比するに尚及ばず。
其の外十方世界の断惑証果の二乗並びに梵天、帝釈、日月、四天、四輪王、乃至、無間大城の大火炎等、此等は皆我等が一念の十界歟。己心の三千歟。仏説たりと雖も之を信ず可からず。
此れを以て之れを思ふに、爾前の諸経は実事なり実語なり。華厳経に云く「究竟して虚妄を離れ、染無きこと虚空の如し」と。仁王経に云く「源を窮め性を尽して妙智のみ存せり」と。金剛般若経に云く「清浄の善のみ有り」と。馬鳴菩薩の起信論に云く「如来蔵の中に清浄の功徳のみあり」。天親菩薩の唯識論に云く「謂く余の有漏と劣の無漏との種なり。金剛喩定が現在前する時、極円明純浄の本識を引くを以て彼の依に非ざるが故に皆永く棄捨す」等云云。爾前の経経と法華経と之を校量するに彼の経経は無数なり。時説既に長し。一仏の二言彼に付く可し。馬鳴菩薩は不法蔵第十一にして仏記にこれあり。天親菩薩は千部の論師にして四依の大士なり。天台大師は辺鄙の小僧にして一論をも宣べず。誰か之を信ぜん。
其上多きを捨てゝ少なきに付くとも、法華経の文分明ならば少しは恃怙あらんも、法華経の文に何れの所にか十界互具、百界千如、一念三千の分明なる証文之れ有りや。随つて経文を開拓するに「断諸法中悪」等云云。
天親菩薩の法華論にも堅恵菩薩の法(宝)性論にも十界互具これ無く。漢土の南北の諸大人師、日本七寺の末師の中にも此の義無し。
但だ天台一人の僻見なり伝教一人の謬伝なり。故に清涼国師の云く「天台の謬なり」。恵苑法師の云く「然るに天台は小乗を呼で三蔵教と為し、其名謬濫するを以て」等云云。了洪の云く「天台独り未だ華厳の意を尽さず」等云々。得一の云く「咄哉智公汝は是れ誰が弟子ぞ、三寸に足らざる舌根を以て、覆面舌の諸説の教時を謗ず」等云云。弘法大師の云く「震旦の人師等諍つて醍醐を盗んで各自宗に名く」等云云。
夫れ一念三千の法門は一代の権実に名目を削り、四依の諸論師其義を載せず。漢土、日域の人師も之を用ひず、如何が之を信ぜん。
答へて曰く、此難最も甚し最も甚し。但し諸経と法華との相違は、経文より事起つて分明なり。未顕と已顕と、証明と舌根と、二乗の成と不と、始成と久成と等之を顕はす。
諸論師の事。章。天台大師の云く「天親、龍樹、内鑒冷然たり。外には時の宣しきに適ひ各権に虜る所あり、而るに人師偏に解し、学者苟も執し、遂に矢石を興し、各一辺に保こと大いに聖道に乖けり」等云云。章安大師の云く「天竺の大論すら尚ほ其類に非ず、真旦の人師何ぞ労はしく語るに及ばん、此れ誇耀に非ず法相の然らしむるのみ」等云云。天親、龍樹、馬鳴、堅恵等は内鑒冷然なり。然りと雖も、時未だ至らざるが故に之を宣べざるか。
人師に於ては天台已前は、或は珠を含み、或いは一向に之を知らず。已後の人師或は初めに之を破して後に帰伏する人有り、或は一向用ひざる者もこれ有り。但し断諸法中悪の経文を会す可きなり。彼は法華経に爾前の経文を載するなり。往いてこれを見よ。経文分明に十界互具を説く。所謂「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云。天台此経文を承けて云く「若し衆生に仏知見無くんば、何ぞ開を論ずる所あらん、当に知るべし、仏の知見衆生に蘊在することを」云云。章安大師の云く「衆生に若し仏の知見無くんば、何ぞ開悟する所あらん、若し貧女に蔵無くんば、何ぞ示す所あらんや」等云云。
但し会し難き所は上の教主釈尊等の大難なり。此事を仏遮会して云く「已今当説、最為難信難解」と。次下の六難九易とは是なり。天台大師の云く「二門悉く昔と反して信じ難く解し難し、鉾にあたるの難事なり」。章安大師の云く「仏此を将て大事と為す、何ぞ解し難きことを得べけんや」。伝教大師の云く「此の法華経は最為難信難解なり、随自意の故に」等云云。
夫れ仏より滅後一千八百余年に至るまで、三国経歴して但三人のみあつて始めて此の正法を覚知せり。所謂月支の釈尊、真旦の智者大師、口域の伝教、此三人は内典の聖人なり。
問て曰く、龍樹、天親等は如何。
答へて曰く、此等の聖人は知つて而も之を言はざるの仁なり。或は迹門の一分之を宣べて、本門と観心とを云はず。或は機有つて時無きか、或は機と時と共に之無きか。天台、伝教已後は之を知る者多多なり。二聖の智を用ゆるが故なり。所謂三論の嘉祥、南三北七の百余人、華厳宗の法蔵、清涼等、法相宗の玄奘三蔵、慈恩大師等、真言宗の善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵等、律宗の道宣等、初めには反逆を存し、後には一向に帰伏せしなり。
但し初の大難を遮せば、無量義経に云く「譬へば国王と夫人と新たに王子を生ぜん、若は一日、若は二日、若は七日に至り、若は一月、若は二月、若は七月に至り、若は一歳、若は二歳、若は七歳に至る、復た国事を領理すること能はずと雖も已に臣民崇敬する所と為つて、諸の大王の子を以て伴侶とせん。王及び夫人愛心偏に重くして常に共に語らん。所以は何ん稚小なるを以ての所以にと云ふが如し。善男子是の持経者も亦復是の如し。諸仏の国王と是の経の夫人と和合して、共に是の菩薩の子を生ず。若し菩薩是の経を聞くことを得て、若は一句、若は一偈、若は一転、若は二転、若は十、若は百、若は千、若は万、若は億万、恒河沙、無量無数転ぜば、復た真理の極を体すること能はずと雖も(乃至)已に一切の四衆八部に宗仰せられて、諸の大菩薩を以て眷属と為し(乃至)常に諸仏に護念せられて、慈愛偏に覆はれん、新学なるを以ての故なり」等云云。
普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵、十方三世の諸仏の眼目(乃至)三世の諸の如来を出生する種なり(乃至)汝大乗を行じて仏種を断ぜざれ」等云云。又云く「此の方等経は是諸仏の眼なり、諸仏是に因つて五眼を具することを得、仏の三種の身は方等より生ず。是大法印にして涅槃の海に印す。是の如き海中能く三種の仏の清浄身を生ず、此の三種の身は人天の福田なり」等云云。
夫れ以みれば、釈迦如来の一代顕密、大小の二教、華厳、真言等の諸宗の依経往て之を勘ふるに、或は十方台葉の毘盧遮那仏、大集雲集の諸仏如来般若染浄の千仏示現。大日、金剛頂等の千二百尊は、但其の近因近果を演説して、其の遠因遠果を顕さず、速疾頓成之を説けども三五の遠化を亡失し、化道の始終跡を削りて見えず。華厳、大日経等は、一往之を見るに別円四蔵等に似たれども再往之を勘ふれば、蔵、通二教に同じて未だ別円にも及ばず、本有の三因これ無し。何を以てか仏の種子を定めん。
而るに新訳の訳者等漢土に来入するの日、天台の一念三千の法門を見聞して、或は自の所持の経経に添加し、或は天竺より受持するの由これを称す。天台の学者等或は自宗に同ずるを悦び、或は遠きを貴んで近きを蔑にし、或は旧を捨てゝ新を取り、魔心愚心出来す。然りと雖も、詮ずる所は一念三千の仏種に非ざれば、有情の成仏も木画二像の本尊も有名無実なり。
問て曰く、上の大難未だ其の会通を聞かず如何。
答へて曰く、無量義経に云く「未だ六波羅密を修行する事を得ずと雖も、六波羅密自然に在前す」等云云。法華経に云く「具足の道を聞かんと欲す」等云云。涅槃経に云く「薩とは具足に名く」等云云。龍樹菩薩の云く「薩とは六なり」等云云。無依無得大乗四論玄義記に云く「沙とは訳して六と云ふ、胡の法には六を以て具足の義と為すなり」。吉蔵の疏に云く「沙とは翻じて具足と為す」。天台大師の云く「薩とは梵語なり、此には妙と翻ず」等云云。私に会通を加へば本門を黷すが如し。
爾りと雖も文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。
四大声聞の領解に云く「無上の宝珠求めざるに自ら得たり」云云。我等が己心の声聞界なり。我が如く等しくして異なること無し。我が昔の所願の如く今は已に満足しぬ。一切衆生を化して皆仏道に入らしむ。妙覚の釈尊は我等が血肉なり。因果の功徳は骨髄にあらずや。宝塔品に云く「其れ能く此の経法を護ること有らん者は、則ち為れ我及び多宝を供養するなり(乃至)我復諸の来り給へる化仏の諸の世界を荘厳し光飾し給ふ者を供養するなり」等云云。釈迦、多宝、十方の諸仏は我が仏界なり。其跡を紹継して其の功徳を受得す。「須臾も之を聞けば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟することを得」とは是れなり。寿量品に云く「然るに我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云。我等が己心の釈尊は、五百塵点、乃至所顕の三身にして、無始の古仏なり。
経に云く「我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶ほ未だ尽きず、復上の数に倍せり」等云云。我等が己心の菩薩等なり。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり。例せば太公、周公旦等は周武の臣下、成王幼稚の眷属、武内の大臣は神功皇后の棟梁、仁徳王子の臣下なるが如し。上行、無辺行、浄行、安立行等は我等が己心の菩薩なり。妙楽大師の云く「当に知るべし、身土は一念の三千なりということを。故に成道の時此の本理に称ふて一身一念法界に遍し」等云云。
其れ始め寂滅道場華蔵世界より、沙羅林に終るまで、五十余年の間、華蔵、密厳、三変、四見等の三土、四土は、皆成劫の上無常の土に変化する所の方便、実報、寂光、安養、浄瑠璃、密厳等なり。能変の教主涅槃に入りたまへば、所変の諸仏も随つて滅尽す。土も又以て是の如し。
今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず未来にも生せず、所化以て同体なり。此れ即ち己心の三千具足の三種の世間なり。迹門十四品には未だ之を説かず、法華経の内に於ても時機未熟の故なる歟。
此の本門の肝心たる南無妙法蓮華経の五字に於ては、仏、猶ほ文殊、薬王等にも之を付属し給はず何に況や其の已下をや。但だ地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給ふ。
其の本尊の体たらく、本師の娑婆の上に、宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に、釈迦牟尼仏、多宝仏。釈尊の脇士たる上行等の四菩薩。文殊、弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化他方の大小の諸菩薩は、万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり。
是の如き本尊は、在世五十余年にこれ無し、八年の間にも但だ八品に限る。正像二千年の間は小乗の釈尊は、迦葉、阿難を脇士と為し、権大乗並びに涅槃、法華経の迹門等の釈尊は、文殊、普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り画けども、未だ寿量の仏ましまさず。末法に来入して、始めて此の仏像出現せしむ可きか。
問ふ、正像二千余年の間は四依の菩薩並びに人師等、余仏、小乗、権大乗、爾前、迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども、本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば、三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる由これを申ぶ。此事粗これを聞くと雖も前代未聞の故に、耳目を驚動し心意を迷惑す。請ふ重ねて之を説け委細に之を聞かん。
答へて曰く、法華経一部八巻二十八品、進んでは前四味、退いては涅槃経等の一代諸経、之を惣括するに但だ一経なり。始め寂滅道場より終り般若経に至るまでは序分なり。無量義経、法華経、普賢経の十巻は正宗なり。涅槃経等は流通分なり。
正宗の十巻の中に於て亦序正流通あり。無量義経並びに序品は序分なり。方便品より分別功徳品の現在の四信より、普賢経に至るまでの十一品半と一巻は流通分なり。
又法華経等の十巻に於ても二経あり。各序正流通を倶するなり。無量義経と序品は序分なり。方便品より人記品に至るまでの八品は正宗分なり。法師品より安楽行品に至るまでの五品は流通分なり。其の教主を論ずれば、始成正覚の仏、本無今有の百界千如を説いて、已今当に超過せる随自意難信難解の正法なり。過去の結縁を尋ぬれば大通十六の時仏果の下種を下し、進んでは華厳経等の前四味を以て助縁と為して大通の種子を覚知せしむ。此れは仏の本意に非ず、但だ毒発等の一分なり。二乗、凡夫等は前四味を縁と為し、漸漸に法華に来至して種子を顕し開顕を遂ぐるの機是れなり。又在世に於て始めて八品を聞く人天等、或いは一句一偈等を聞いて下種と為し或いは熟し、或いは脱し、或いは普賢、涅槃等にいたり、或いは正、像、末等に小権等を以て縁と為して法華経に入る。例せば在世の前四味の者の如し。
又本門十四品の一経に序正流通あり。涌出品の半を序分と為し、寿量品と前後の二半此れを正宗と為す。其の余は流通分なり。其の教主を論ずれば始成正覚の釈尊に非ず、所説の法門も亦た天地の如し。十界久遠の上に国土世間既に顕はる、一念三千殆ど竹膜を隔てたり。又迹門並びに前四味、無量義経、涅槃経等の三説は悉く随他意の易信易解、本門は三説の外の難信難解随自意なり。又本門に於ても序正流通有り。過去大通仏の法華経より、乃至現在の華厳経乃至迹門十四品、涅槃経等の一代五十余年の諸経十方三世諸仏の微塵の経経は、皆寿量の序分なり。一品二半より外は、小乗教、邪教、未得道教、覆相教と名く。其の機を論ずれば、徳薄垢重、幼稚貧窮孤露にして禽獣に同じ。爾前、迹門の円教すら尚ほ仏因に非ず、何に況や大日経等の諸小乗教をや。何に況や華厳、真言の七宗の論師、人師の宗をや。与へてこれを論ずれば、前三教を出でず。奪つてこれを云へば蔵、通に同ず。設ひ法は甚深と称すとも、未だ種熟脱を論ぜず「還同灰断、化無始終」とは是れなり。譬へば王女たりと雖も、畜種を懐任(妊)すれば、其の子尚旃陀羅に劣れるが如し。此等は且くこれを閣く。
迹門十四品の正宗の八品は、一応これを見るに二乗を以て正と為し、菩薩、凡夫を以て傍と為す。再往これを勘ふれば凡夫、正像末を以て正と為す。正像末の三時の中にも、末法の始めを以て正が中の正と為す。
問て曰く、其証如何。
答へて曰く、法師品に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」。宝塔品に云く「法をして久住せしむ。(乃至)来れる所の化仏、当に此の意を知るべし」等。勧持、安楽等之を見るべし。迹門是の如し。
本門を以て之を論ずれば、一向に末法の初めを以て正機と為す。所謂一往之を見る時は、久種を以て下種と為し、大通前四味迹門を熟と為して、本門に至つて等妙に登らしむ。再往之を見れば、迹門には似ず、本門は序正流通倶に末法の初めを以て詮と為す。在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼れは脱、此れは種なり。彼れは一品二半、此れは但だ題目の五字なり。
問て曰く、其の証文如何。
答へて云く、涌出品に云く「爾の時に他方の国土の諸の来れる菩薩摩訶薩の八恒河沙の数に過ぎたる、大衆の中に於て、起立し合掌し、礼を作して仏に白して言さく、世尊若し我等に仏の滅後に於て此の娑婆世界に在つて勤加精進して是の経典を護持し、読誦し、書写し、供養せんことを聴し給はゞ、当に此土に於て広く之を説き奉るべし。爾の時に仏諸の菩薩摩訶薩衆に告げ給はく、止みね善男子、汝等が此経を護持せんことを須ひじ」等云云。
法師品より已下の五品の経文前後水火なり。宝塔品の末に云く「大音声を以て普く四衆に告げ給はく、誰か能く此の娑婆国土に於て、広く妙法華経を説かん者なる」等云云。設ひ教主一仏たりと雖も、之を奨勧し給はゞ、薬王等の大菩薩、梵帝、日月、四天等は之を重んずべき処に、多宝仏、十方の諸仏、客仏と為て之を諌暁し給ふ。諸の菩薩等は此の慇懃の付属を聞いて、我不愛身命の誓言を立つ、此等は遍へに仏意に叶はんが為なり。而るに須臾の間に仏語相違して過八恒沙の此の土の弘経を誓止し給ふ。進退惟谷まる、凡智に及ばず。天台智者大師前三後三の六釈を作つて之を会し給へり。所詮迹化佗方の大菩薩等に、我が内証の寿量品を以て授与すべからず。末法の初めは謗法の国にして、悪機なる故に之を止めて、地涌千界の大菩薩を召して、寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て、閻浮の衆生に授与せしめ給ふなり。又迹化の大衆は、釈尊の初発心の弟子等に非ざるが故なり。天台大師の云く「是れ我が弟子なり 我が法を弘むべし」。妙楽の云く「子父の法を弘む、世界の益あり」。輔正記に云く「法は是れ久成の法なるを以ての故に、久成の人に付す」等云云。
又弥勒菩薩疑請して云く、経に云く「我等は又仏の随宜の所説、仏所出の言、未だ曽て虚妄ならずと信じ、仏の所知は皆悉く通達すと雖も然も諸の新発意の菩薩、仏の滅後に於て、若し是の語を聞かば、或は信受せずして、法を破する罪業の因縁を起さん。唯願くば世尊、願くば為に解説して我等が疑を除き給へ。及び未来世の諸の善男子此の事を聞き已つて亦疑ひを生ぜじ」等云云。文の意は寿量品の法門は滅後の為に此を請ずるなり。
寿量品に云く「或は本心を失へる、或は失はざる者あり、(乃至)心を失はざる者は、此の良薬の色香倶に好きを見て、即便之を服するに病尽く除こり癒えぬ」等云云。久遠下種、大通結縁、乃至前四味、迹門等の一切の菩薩、二乗、人天等の本門に於て得道する是なり。経に云く「余の心を失へる者は、其の父の来れるを見て、亦歓喜し問訊して病を治せんことを求索すと雖も、然も其の薬を与ふるに而も肯て服せず。所以は何ん、毒気深く入つて本心を失へるが故に、此の好き色香ある薬に於て、而も美からずと謂へり。(乃至)我今当に方便を設けて、此の薬を服せしむべし。(乃至)此の好き良薬を、今留めて此に在く、汝取つて服すべし、差えじと憂ふること勿れ。是の教を作し已つて、復た他国に至つて、使を遣はして還つて告ぐ」等云云。分別功徳品に云く「悪世末法の時」等云云。
問て云く、此の経文の遣使還告は何ん。
答へて曰く、四依なり。四依に四類あり。小乗の四依は、多分は正法の前の五百年に出現す。大乗の四依は、多分は正法の後の五百年に出現す。三に迹門の四依は、多分は像法の一千年、小分は末法の初めなり。四に本門の四依は、地涌千界は末法の始めに必ず出現すべし。今の遣使還告は地涌なり。是好良薬とは、寿量品の肝要たる妙、体、宗、用、教の南無妙法蓮華経是れなり。此の良薬をば仏猶迹化に授与し給はず、何に況んや他方をや。
神力品に云く「爾の時に千世界微塵等の菩薩摩訶薩の他より涌出せる者、皆仏前に於て一心に合掌し、尊顔を瞻仰して仏に白して言さく、世尊、我等仏の滅後、世尊分身所在の国土、滅度の処に於て、当に広く此経を説くべし」等云云。天台の云く「但だ下方の発誓のみを見たり」等云云。道宣云く「付属とは、此経をば但だ下方涌出の菩薩に付す、何が故ぞ爾る、法是れ久成の法なるに由るが故に久成の人に付す」等云云。
夫れ文殊師利菩薩は東方金色世界の不動仏の弟子、観音は西方無量寿仏の弟子、薬王菩薩は日月浄明徳仏の弟子、普賢菩薩は宝威仏の弟子なり。一往釈尊の行化を扶けん為に娑婆世界に来入す。又爾前迹門の菩薩なり。本法所持の人に非ざれば末法の弘法に足らざる者歟。経に云く「爾の時に世尊(乃至)一切の衆の前に大神力を現じ給ふ。広長舌を出して上梵世に至らしめ、(乃至)十方世界衆の宝樹の下の獅子座の上の諸仏も亦復是の如く、広長舌を出し給ふ」等云云。
夫れ顕密の二道、一切の大小乗経の中に、釈迦、諸仏座を並べ、舌相梵天に至る文これ無し。阿弥陀経の広長舌相、三千を覆うは有名無実なり。般若経の舌相三千、光を放つて般若を説きしも全く証明に非ず、此れは皆兼帯の故に、久遠を覆相する故なり。
是の如く十神力を現じて、地涌の菩薩に妙法の五字を嘱累して云く、経に云く「爾の時の仏上行等の菩薩、大衆に告げ給はく諸仏の神力は是の如く、無量無辺不可思議なり。若し我れ是の神力を以て、無量無辺百千万億阿僧祇劫に於て、嘱累の為に故に此の経の功徳を説くとも、猶尽すこと能はじ。要を以て之を言はば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」等云云。天台の云く「爾時仏告上行より下は第三結要付属なり」云云。伝教の云く「又神力品に云く。要を以て之を言はゞ、如来の一切の所有の法(乃至)宣示顕説す(已上経文)明かに知んぬ、果分の一切の所有の法、果分の一切の自在の神力、果分の一切の秘要の蔵、果分の一切の甚深の事、皆法華に於て宣示顕説するなり」等云云。
此の十神力は妙法蓮華経の五字を以て、上行、安立行、浄行、無辺行等の四大菩薩に授与し給ふなり。前の五神力は在世の為、後の五神力は滅後の為なり。爾りと雖も再往之を論ずれば、一向に滅後の為なり。故に次下の文に云く「仏滅度の後に、能く是の経を持たんを以ての故に、諸仏皆歓喜して、無量の神力を現じ給ふ」等云云。次下の嘱累品に云く「爾の時に釈迦牟尼仏、法座より起つて大神力を現じ給ふ。右の手を以て無量の菩薩摩訶薩の頂を摩て(乃至)今以て汝等に付属す」等云云。地涌の菩薩を以て頭と為して迹化他方、乃至梵、釈、四天等に此経を嘱累し給ふ。「十方より来り給へる諸の分身の仏、各本土に還り(乃至)多宝仏の塔還て故の如くし給ふべし」等云云。薬王品已下、乃至涅槃経等は、地涌の菩薩去り了つて、迹化の衆、佗方の菩薩等の為に、重ねて之を付属し給ふ。・拾遺嘱とは是れなり。
疑つて云く、正像二千年の間に地涌千界閻浮提に出現して、此経を流通するや。
答へて曰く、爾らず。
驚いて云く、法華経並びに本門は仏の滅後を以て本と為して、先づ地涌千界に之を授与す、何ぞ正像に出現して此経を弘通せざるや。
答へて云く、宣べず。
重ねて問て云く、如何。
答ふ、之を宣べず。
又重ねて問ふ如何。
答へて曰く、之を宣ぶれば一切世間の諸人、威音王仏の末法の如く、又我が弟子の中にも粗ぼ此れを説かば、皆誹謗を為すべければ黙止せんのみ。
求めて云く、説かずんば汝慳貪に堕せん。
答へて曰く、進退惟れ谷まれり、試みに粗ぼこれを説かん。法師品に云く「況滅度後」と。寿量品に云く「今留在此」と。分別功徳品に云く「悪世末法時」と。薬王品に云く「後五百歳、於閻浮提広宣流布」と。涅槃経に云く「譬へば七子あり、父母平等ならざるに非ざれども、然れども病者に於て、心即ち偏に重きが如し」等云云。已前の明鏡を以て仏意を惟知するに、仏の出世は霊山八年の諸人の為に非ず、末法の始め予が如き者の為なり。「然於病者」と云ふは、滅後の法華経誹謗の者を指すなり。「今留在此」とは、此の好き色香ある薬に於て、而も美からずと謂へる者を指すなり。
地涌千界正像に出でざるは、正法 千年の間は、小乗、権大乗なり。機と時と共に之無し、四依の大士、小権を以て縁と為して、在世の下種此を脱せしむ。謗多くして熟益を破るべき故に之を説かず。例せば在世の前四味の機根の如し。像法の中末には観音、薬王、南岳、天台等と示現し出現して、迹門を以て表と為し、本門を以て裏と為して、百界、千如、一念三千、其の義を尽せり。但理具を論じて、事行の南無妙法蓮華経の五字、並びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず。所詮円機有れども円事無き故なり。
今末法の始め小を以て大を打ち権を以て実を破し、東西共に之を失し、天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず、諸天は其の国を棄てゝ、之を守護せず、此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。因謗堕悪必由得益とは是なり。
我が弟子之を惟へ。地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり。寂滅道場にも来たらず双林最後にも訪らはず、不幸の失之あり。迹門の十四品にも来らず、本門の六品には座を立つ、但だ八品の間に来還せり。是の如き高貴の大菩薩、三仏に約足(束)して之を受持す。末法の初めに出給はざるべき歟。当に知るべし。此の四菩薩は、折伏を現ずる時は、賢王と成つて愚王を誡責し、摂受を行ずる時は、僧と成つて正法を護持す。
問て曰く、仏の記文は云何。
答へて曰く「後の五百歳閻浮提に於て広宣流布せん」と。天台大師記して云く「後の五百歳遠く妙道に沾はん」と。妙楽記して云く「末法の初め冥利無きにあらず」と。伝教大師の云く「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り」等云云。末法太だ近きに有りの釈は、我が時は正時に非ずと云ふ意なり。伝教大師が日本の末法の初めを記して云く「代を語れば像の終り末の初め、地を尋ぬれば唐の東、・の西、人を原れば即ち五濁の生、闘諍の時なり」。経に云く、「猶多怨嫉、況滅度後」と。此の言、良に以あるなり。此の釈に闘諍の時と云云。今の自界叛逆、西海侵逼の二難を指すなり。
此の時地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊を此の国に立つべし。月支、震旦にも未だ此の本尊ましまさず。日本国の上宮、四天王寺を建立せしに、未だ時来らざれば、阿弥陀佗方を以て本尊と為す。聖武天王、東大寺を建立せしも、華厳経の教主なり。未だ法華経の実義を顕はさず。伝教大師は粗ぼ法華経の実義を顕示す。然りと雖も、時未だ来らざるの故に、東方の鵝王を建立して、本門の四菩薩を顕はさず。所詮地涌千界の為に此れを譲り与へ給ふ故なり。此の菩薩は仏勅を蒙むりて近く大地の下に在りて、正像に未だ出現せず。末法にも又出で来りたまはずんば大妄語の大士なり。三仏の未来記も亦泡沫に同ぜん。
此れを以て之を惟ふに、正像にも無き大地震、大彗星等出来す。此等は金翅鳥、修羅、龍神等の動変に非ず。偏に四大菩薩をして出現せしむべき先兆なる歟。天台の云く「雨の猛きを見て龍の大なるを知り、花の盛なるを見て池の深きことを知る」等云云。妙楽の云く「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を知る」等云云。
天晴れぬれば地明かなり。法華を識る者は世法を得べき歟。一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裏て、末代幼稚の頸に懸けさしめ玉ふ。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと、大公、周公の文(成)王を摂扶し、四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり。
文永十年太歳癸酉卯月二十五日
日蓮 之を註す
副 状
帷(かたびら)一つ、墨三長、筆五巻給び候いおわんぬ。
観心の法門少々これを注し、太田殿・教信御房等に奉る。
この事、日蓮当身(とうしん)の大事なり。これを秘して、無二の志を見ば、これを開哀(かいたく)せらるべきか。
この書は難多くして答え少なし。未聞(みもん)の事なれば、人の耳目これを驚動(きようどう)すべきか。設(たと)い他見に及ぶとも、三人四人座を並べてこれを読むこと勿れ。
仏滅後二千二百二十余年、いまだこの書の心あらず。国難を顧みず、五五百歳を期してこれを演説す。
乞い願わくは一見を歴るの末輩(まつぱい)、師弟供に霊山(りようぜん)浄土に詣でて、三仏の顔貎(げんみよう)を拝見したてまつらん。恐恐謹言。
文永十年〈太才癸酉〉卯月二十六日
日 蓮 花押
富 木 殿 御返事