日蓮さまの御生涯
〔誕 生〕 日蓮聖人(にちれんしょうにん)は800余年前、承久4年(1222)2月16日、安房国長狭郡東条郷(あわのくにながさのこおりとうじょうのごう)現在の千葉県安房郡天津小湊町の片海(かたうみ)でお生まれになったと伝えられております。 しかし、聖人の出自を聖人のいわれるとうり、一介の漁夫の子供とするには疑点が多いのです。少年期に近隣の清澄寺(せいちようじ)に登って勉学していることや、聖人の父母が領家の尼にご恩を受けていることなどから、その出自を荘官(しょうかん)説、あるいは有力漁民説、武士説などが出されていますが、武士説が有力のようです。 いずれにしても、聖人は中央の文化圏から遠くはなれた中世東国の海辺に生まれました。鎌倉新仏教創唱者のなかでは、ただ一人の東国出身者ですしかもはるかに先進的であった京都やその周辺に生まれた道元・親鸞らのように、貴族階級の出身でもありませんでした。しかし、こうした環境に聖人が生まれ、東国のなまなましい現実の認識のなかで若き日々を送ったことは、宗教者・日蓮聖人の出発点において、またその後の聖人の人間や思想形成に大きな影響をあたえたのです。 〔修 学〕 聖人は天福元年(1233)の12歳のとき、近くの比叡山横川(ひえいざんよかわ)系の天台宗清澄寺に登り、道善房(どうぜんぼう)を師匠として修学します。同学の義浄房・浄顕房の二人も、聖人に初等教育をほどこした幼学の師でした。やがて16歳の聖人は道善房について出家し、是聖房(ぜしょうぼう)と名乗ります。是聖房には無常感・諸宗の乱立・浄土教への疑問など、解決すべき多くの課題がありました。 師の道善房の住房で、円珍に仮託された中古天台の教学書である『授決円多羅義集唐決』を書写したのは17歳のときでしたし、聖人の当時の最大の関心事でありました無常感の克服のために、いちはやく浄土教を学習したのもこのころでした。 しかし、清澄寺における勉学には限界がありました。ひたむきな求法(ぐほう)に燃える聖人の疑問に対し、都から遠くはなれた清澄寺には、解決を与えてくれる人師(にんし)がいなかったのです。やがて聖人は清澄寺を下り、東国文化の中心である鎌倉に出て、さらに仏教教学の根拠地である京畿をめざし求法の旅に出ます。 それは仏教の中心である比叡山・園城寺・高野山・四天王寺の寺々でした。留学中の聖人の事跡については、史料上の制約から明らかでありません。 この時期確実なのは、わずかに建長3年(1251)11月24日、新義真言宗の祖である覚鑁(かくぱん)が著わした『五輪九字明秘密釈』を洛内で書写したことだけです。なお、聖人が留学期間の多くを費やしたのは京畿仏教界の中心である比叡山でしたが、貞治2年(1363)に日大が著わした『日大直兼台当問答記』によれば、当時叡山の学匠として著者であった俊範(しゅんぱん)からも天台教学を学んだと伝えています。 〔法華経の選択〕 聖人は経典に埋もれたひたむきな修学のなかで、一つの疑問を抱くようになります。それは、おのおのの経典の説くところに相違があり、おのおのの経典に自負するところの優越性があるが、それをいかに統一して考えたらよいのか。諸経・諸宗の中心となるべき釈尊の真実の教えを説いた経典は何であるのかという問題でした。疑問の深まりと模索のなかで、聖人は一つの確信に到達します。 それは涅槃経の一節である「法に依りて人に依らざれ、義に依りて語に依らざれ、智に依りて識に依らざれ、了義経に依りて不了義経に依らざれ」という経文を見いだしたときです。後年、そのときの確信を、『報恩鈔』に 「一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云く、法に依りて人に依らされ等云々。依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊帥利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり。此経に又云く、了義経に依りて不了義経に依らざれ等云々。此経に指すところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり。されば仏の遺言を信ずるならば、専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか(定1194頁)」。 と言われています。つまり仏の法のみを依りどころとし、人師の説いたものを頼みとせず、仏の教えを完全に説き明かした維典に依り、仏の教えを説き明かしていない経典に依るべきでないという考え方のもとに、法華経という経典が把握されたのです。 加えて、法華経の直前に説かれた開経である無量義経説法品の「四十余年にはいまだ真実を顕わさず」とある経文により、釈尊か説き明かした唯一の法は、法華経であるとの確信をいっそう強めていきました。かつて天台僧として出発した聖人は、再び法華経に復帰したのです。出家いらい読誦してきた法華経を、再び把握した聖人は、法華経受持者=持経者としての自己を確立しました。 かくて、聖人は10数年におよぶ、京畿遊学・比叡山留学のあいだに、いくつかの遍歴を経て法華経を選びとり、法華経至上主義者としての自己を確立して安房に帰ります。 〔立教開宗〕 建長5年(1253)4月28日払暁、清澄山頂旭ケ森(あさひがもり)にて昇りくる太陽に向かって題目を唱えること10辺、ついで清澄寺道善房の持仏堂の南面で、法華経至上主義を強調し、とりわけ浄土教の誤りを指摘しました。いわゆる立教開宗です。 聖人のこの立教の宣言とその内容は、寺内はもちろんその周辺に大きな衝撃を与えました。それは当時、清澄寺には天台浄土教が波及し、師の道善房をはじめとする寺内の住僧や、安房東条郷の地頭.東条景信など、近辺には熱心な念仏者が多かったからです。信仰する浄土教を否定し、法華信仰を独調する聖人に対し、かれら念仏者の憎しみは強まり、ついに聖人は東条景信やそれに結託した円智房・実城房らの圧力によって清澄寺から追放されます。師の道善房はかれらの威嚇により、聖人の清澄寺追放を黙過するだけでした。 清澄寺追放は、聖人の浄土教批判にともなう念仏者の圧力という宗教的理由だけではありませんでした。最近では次のような仮説も出されています。 聖人が立教開宗した建長年間は、全国的に地頭の荘園侵略が進行した時期とされ、東条の地頭である景信も荘園の領地をめぐって領家の尼と対立していました。領家の尼は聖人の父母が恩を受けた人ですので、聖人は領家の尼に味方し、ついに景信との裁判闘争に勝ちました。景信の野望は聖人によって挫折させられたのです。こうした理由と浄土教を批判する聖人への憎しみが重なリ、聖人を清澄寺から追放したとするものです。 この清澄寺追放の時期について聖人の明言はありません。近時、その時期を建長6年9月3日以降との説も出されていますが、前出の大石寺日道の「御伝土代」はその日のうち、つまり立教開宗の4月28日に清澄寺から退出したと記しています。しかしながら、聖人はこの追放によって法華経勧持品に説く「しばしば擯出せられ、塔寺を遠離せん」の意味を体験し、いっそう自説の正統性を確信し、清澄寺をあとにしました。 〔立正安国論の上呈〕 政治と文化の中心地である鎌倉に出た聖人は、松葉谷(まつばがやつ)に草庵を結び、弘通(ぐづう)の拠点としました。鎌倉の街に出ては法然浄土教を批判し、法華信仰を説き明かすという辻説法を開始します。ところが建長8年(1256)ごろから凶作・飢饉・疫病・大地震・洪水などが起こり、わずか5年の間に、年号も康元・正嘉・正元・文応と改元しました。この数年間、鎌倉松葉谷の草庵でつぎつぎと起こる災害を目撃した聖人は、仏教者として諸人の苦しむ災害続発の原因とその対策を一切経に求めました。 法華経を中心とする諸経の閲読の結果、災害続発の原因は法然浄土教にあり、その対策は正法である法華経に帰依することであるとの結論に達します。聖人はそれを『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)に集約し、文応元年(1260)7月16日、得宗被官宿屋左衛門人道を通じて、当時政界最高の実力者である前執権北条時頼に上呈しました。その要旨は次のとおりです。 「近年の災害続出の原因は人々が正法に背き、悪法に帰依したために国土を守護する善神が国を捨て去り、聖人は所を辞して還らないために悪魔・悪鬼が来たって災害が起こったのである。正法とは法華経であり、悪法とは法然浄土数である。その方策は悪法である浄土教への施を止め、法華経に帰することである。このまま放置するならば三災七難のうち、いまだ現れていない薬師経などに説く他国侵逼難(たこくしんぴつなん)・自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)が起こるであろう。もし実乗の一善たる法華経に帰依するならば、この世界は仏国であり、その仏国に衰亡はなく、十方ことごとく宝土であるから身心ともに安全となるであろう」 とし、改信と法華経への帰依を強く勧めたものでした。しかし、幕府からの返答はありませんでした。 〔伊豆流罪〕 聖人は『立正安国論』上呈後も、その内容を説き明かしていました。浄土教を災害の原因とし、浄土教徒への施を止めることを勧めた『立正安国論』を幕府へ上呈したことを知ったかれらは激怒し、聖人に法論をいどみました。しかし、鎌倉浄土教を代表する新善光寺の道阿道教や長安寺能安も一言、二言のもとに聖人に論破されてしまいました。この結果さらに浄土教徒の聖人に対する憎しみは強まり、ついに文応元年(1260)8月27日の夜、聖人の草庵を襲撃します。 いわゆる松葉谷草庵の焼打ちです。幸い、聖人はこの危難をのがれましたが、翌弘長元年(1261)5月12日、幕府は聖人を逮捕し、『立正安国論』の主張が幕政批判であるとして伊豆伊東に配流します。最初の法難つまり国家権力による弾圧でした。 聖人は伊豆で弘長3年(1263)2月22日の赦免まで、1年9カ月の流謫(るたく)の生活を送ります。この間、浄土教徒の迫害はくり返しおこなわれましたが、伊東氏の病気を祈って平癒させたことも加わり配流の生活は好転したようです。 そして、法華経を色読する自己を法華経の持経者・行者と規定するとともに、五義の教判を明らかにし、この五義を知らなければ正しい弘通はできないとしました。 弘長3年2月22日、聖人は伊豆流罪を赦されて鎌倉に帰ります。しかし、帰ってきた聖人の前に現れたのは、聖人の伊豆流罪中、金沢実時の招きによる律僧・叡尊の鎌倉進出と、その弟子・忍性の北条氏一門や幕府上層部と結びついた活躍でした。聖人はここに浄土教・禅宗のほかに律宗という新たな批判の対象を見出し対決していきます。 〔小松原法難〕 鎌倉に帰った聖人はその年か翌文永元年(1264)、母の病気看護のために安房に帰省し、母の平癒後、安房に法華信仰を勧めていきます。文永元年11月11日、西条華房(さいじょうはなぶさ)に向かう聖人の一行約10名が、東条の松原の大路にさしかかったとき、地頭・東条景信を中心とする数百人の念仏者が聖人の一行を襲撃しました。弟子1人は討ち死に、2人は重傷を負い、聖人も頭に疵を受け左手を折られましたが、からくも危難をのがれました。かつて聖人は立教開宗のおり、浄土教を否定し、また束条景信の地頭としての勢力拡大を挫折させました。いま再び浄土教を批判し、聖人へ傾倒する者を見た景信の憎しみは深まり、ついに数を頼んで聖人一行への襲撃となって行動化されたのです。これを小松原法難といいます。 聖人は東条景信の襲撃をのがれて鎌倉に帰りました。思えば、法華信仰の勧奨により清澄寺を追放されて以来、『立正安国論』の上呈、浄土教の批判にともなう浄土教徒による草庵の襲撃、そして東条景信の襲撃と、まさに迫害の連続でした。こうした一連の迫害・弾圧を体験して、聖人は仏の滅後における法華経の担い手に対して、怨嫉が加えられることを記した法華経法師品にいう「しかもこの経は如来の現在すら猶お怨嫉多し、いわんや滅度の後をや」、安楽行品にいう「一切世間に怨多くして信じ難し」の経文を自己のものとして、「日本第一の法華経の行者」の確信に達します。 この法華経の行者は、仏の未来記と合致して迫害・弾圧を被る受難者であるとともに、その受難をのりこえて、さらに法華経勧持品にいう「我身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ」の決意のもとに、再び活動を展開していこうとする実践者・弘通者です。とりわけ聖人は、この「我身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ」と説き、菩薩等の値難の忍受による弘経の誓願をのべた勧持品20行の偈文を自己の弘通と値難忍受の支えとして、いっそう鎌倉・下総での弘通をすすめていきました。 しかし、聖人は単なる法華経の行者として、多くの苦難を忍受したのではありません。受難のなかに、まず自らが過去に犯した正法たる法華経を誹誇(ひぼう)した罪である謗法罪(ほうぼうざい)を見いだし、受難によってその罪を消し、後生の大楽を受けることにありました。 釈尊の本意を法華経に見いだした聖人にとって、謗法とは正法を謗ることであり、その正法たる法華経に対する誹謗に勝る重罪はなかったのです。いわゆる世俗の罪悪よりも、かかる謗法の罪科を重視したのもこのためであり、謗法の重罪を消すことにくらべれば、この世の迫害・弾圧は極めて軽いものでした。諸宗破折の行動や、それにともなって起こる苦難を耐え抜いた聖人の意識の根底に、謗法の問題が厳しく存在していたことを忘れてはならないのです。 〔蒙古国書の到来〕 文永2年(1256)も終わりのころ、聖人は再び安房に帰り、翌文永3年(1266)正月六6日には清澄寺で「法華題目鈔」を述作しています。 帰省の理由は、文永元年(1264)11月11日、東条松原の大路で東条景信の襲撃で亡くなった最初の殉教者である弟子の壱周忌を悼んでのことではなかったでしょうか。 文永3、4年ころの聖人の行動は不明ですが、鎌倉を中心に法華信仰を説き明かしていたと思われます。 文永5年(1268)潤正月、アジア大陸はもとより、ヨーロッパ大陸の一部にまでその勢力を拡げていた蒙古の国書が九州の太宰府にもたらされました。国書の内容は日本に服属を求め、応じなければ武力を用いて攻略することをほのめかしたものでした。幕府は鎮西諸国の御家人に防備を命じるなど、蒙古と対決すべく準備を始めます。しかし、国書の到来は多くの人々を驚きから、やがて襲来の不安におとしいれていきました。 一方、同書の到来は9年前の文応元年(1260)、聖人が幕府に上呈した『立正安国論』で警告した他国侵逼難(たこくしんぴつなん)の予言を的中させたことになります。聖人は自己の教説に自信を深め、諸宗批判をさらに激化させます。その教説を採択させるための具体的な行動は次のとおりです。 この年、文永5年4月5日、幕府に近い法鑑房に書状を送り、予言の的中を指摘して幕府の反省を促し、ついで8月、かつて『立正安国論』上呈のおり、取次者であった得宗被官の宿屋人道に書状を送り、再び執権北条時宗へ『立正安国論』の取り次ぎを申し入れ、「立正安国論」に対する幕府の反省を促しました。しかし、宿屋人道が握りつぶしたらしく返事はありません。 聖人は再び書状を宿屋入道に送り、もし蒙占襲来に至ったときはあなたの責任であると警告し、強く執権へ内奏を申し入れ、幕府の返答を迫りました。 聖人は幕府のみならず、諸方へも同趣旨のことを申し送りましたが、肯定・否定の返事すらありません。一方、蒙古は翌文永6年(1269)3月、9月とつぎつぎと使者を送り、日本の服属を迫ってきました。聖人も同10年1月、再び諸方へ同趣旨の申し入れを送りましたが、今度は聖人の主張に同感して返事をするものもでてきました。 このように蒙古国書の到来を機として、聖人の言動は激化しました。かつて聖人は『立正安国論』の上呈とその弘通によって伊豆に流されましたので、今また同じ主張をくり返す自分を、幕府が断罪しないのは不思議であると考えていました。そして、やがて弾圧がくるであろうことを予想するとともに、流罪・死罪を恐れず余命を法華経のために投げ出そうとの強い決意をしています。そして、文永6年も終わりの12月8日、聖人は改めて『立正安国論』を書写し、その奥に次のように書き記しました。 「既に勘文これに叶う、これに準じてこれを思うに未来亦然るべきか。この書は微(しるし)ある文也。これ偏に日蓮の力にあらず、法華経の真文の至す所の感応か(定443頁)」 ここに聖人が『立正安国論』の意図と意義を再考し、再確認したことが、その書写の事実から明らかとなります。 〔竜口法難〕 蒙古は再々にわたって使者をよこすのみで襲来してきません。しかし、蒙古がすぐに襲来してこなかったことが、いっそう襲来の不安をたかめ、聖人の信奉者を増大させていきました。そして蒙古襲来の不安のなかで、激化した諸宗批判は、ひとり聖人のみならず形成されていく門弟によっても行動化されていったのです。 こうしたなかで、文永8年(1271)6月、続く干天(かんてん)のため幕府は律宗の良観房忍性に祈雨を命じました。聖人は使者を忍性に送り、「七日のうちに雨が降れば、自分は忍性の弟子となろう。もし降らなければ法華経に帰せよ」と一言を送りましたが、雨は降りません。 祈雨に負けた彼らは、翌7月8日、浄光明寺行敏の名で法論を申し入れてきました。聖人は上奏を経たうえでの公場対決ならば喜んで応じようと返事しました。鎌倉仏教界を代表する忍性・然阿良忠・道阿道教らは、聖人が念仏・禅・律を否定すること、室中に凶徒を集めていること、武器を所持することなどを書き記して上奏しましたので、聖人はただちに陳状を提出し、その沙汰をまちましたが、彼らは反論できず、ついに対決は実現することなく終わりました。 その後の彼らは幕府上層部や未亡人たちに取り人って、聖人の言動に讒訴・中傷をかさね、聖人を断罪させるべく策謀しました。聖人の諸宗批判や幕府の蒙古対策に対する批判に対し、文永8年9月12日、侍所所司、平左衛門尉頼綱は武装した兵士数百人を引きつれ、松葉谷の草庵を襲い聖人を捕らえました。 このとき聖人は頼綱に対し、きびしく諌めます。いわゆる三度の諌暁(かんぎょう)のうち、『立正安国論』上呈に次ぐ第二の諌言といわれるものです。13日の真夜中、当時の刑場である竜口(たつのくち)に聖人を引き出し、内密に処刑しようとしましたが、天変がおこって聖人を切ることができず、表向きの罪名どおり佐渡に流罪となります。 幕府の弾圧は聖人のみならず、弟子・檀越にも徹底的に加えられました。日朗はじめ多くの弟子も聖人の逮捕とともに牢につながれます。それは1000人のうち999人が聖人の信仰から離れたというほど大規模なものでした。聖人は流罪地佐渡へ出発する前日の10月9日、日朗らに別れの手紙を送っています。 〈意訳〉 あなたがたは、法華経のゆえに牢に投ぜられているのですから、法華経を身体で読まれていることなのです。それゆえ、その功徳は御身はいうまでもなく、父母兄弟等の諸霊に回向されることでしょう。今夜の寒さはひとしおですから、自分のことよりも牢のあなたがたのことが思いやられて、痛わしく感じられてなりません。赦されて牢を出られたならば、明年の春かならず佐渡へお越しください。お会いしたいと思います。「土篭御書」 ここには、聖人の剛毅の半面にあふれるばかりの温情、慈愛をみることができます。 しかし、この弾圧によって文永初年以来、築きあげてきた聖人の門弟は、壊滅寸前の危機に追いこまれました。聖人はこの弾圧を覚悟のこととして受けとめ、国土の安穏を願い、人々の成仏を願って法華経を弘め、罪科に処せられてこそ、自分が過去におかした法華経誹謗の罪を消すことができるのだとしました。そして、この謗法の重業を消すことにくらべれば、この世の迫害・弾圧は軽いものであるとし、弾圧を受けた宗教的意味をみずからも考え、弟子・檀越にも教えていきました。 それにしても、この弾圧は弟子・檀越の多くを転向させてしまうほど徹底的なものでした。そうした過酷な弾圧のなかで聖人の教えを守りとおし、罪科に処せられた牢内の弟子・檀越の身を案じながら、聖人は配流地である佐渡へ出立します。相模依智の出発は10月1日でした。 〔佐渡流罪〕 佐渡への道は、相模の依智から武蔵国久米川(東京都東村山市)を経て、児玉(埼玉県)、上野国(群馬県)、信濃国(長野県)そして越後国寺泊(新潟県)まで、12日を経て10月23日に到着しました。さらに寺泊を10月28日に出帆して佐渡の松崎に着きます。新穂の守護代・本間重連邸の後方にある死者を葬る塚原三昧堂が、流謫の手活を送る住居でした。 この陰惨な三昧堂に伊豆流罪のとき感得した立像の釈尊を安置し、食乏しく寒気と風雪に責められながら、翌年の4月ごろまで過ごすことになります。 配流された翌文永9年(1272)2月、再び聖人の予言を実証する事件が起こります。執権北条時宗が庶兄の六波羅探題時輔や名越時章・教時を誅殺するという北条氏一門の同志討ちで、それは『立正安国論』の白界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)の予言を実証するものでした。この結果、聖人や佐渡に随っていった弟子たちの行動も活発化します。それに対し、北条氏一門の佐渡の守護大仏宣時は、本間重連に流人僧・日蓮が弟子を引率して悪行をおこなっているそうであるが、従う者にはいましめ、さらに違犯する者はその名前を知らせるよう指示しています。 一方、過酷な弾圧に耐えて聖人の教えを信奉しつづける門弟のなかに、なぜ法華経を弘めるわが師・日蓮聖人が、このような迫害にあわなければならないのかという疑問や動揺がおこりました。これらの疑問にこたえて執筆したのが『開目抄』(かいもくしょう)です。その一節に、 「日蓮といいし者は、去(文永八)年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。これは魂魄佐渡の国にいたりて、返年(文永九年)の二月雪中にしるして有縁の弟子へおくれば……かたみともみるべし(定590頁)」 というように、本書は頚をはねられた聖人が魂魄となつて執筆した「かたみ」でした。 その主旨は法華経こそが末法の正法であり、日蓮が末法の導師であることを明らかにすることでした。昔から人開顕(にんかいけん)の書といわれる理由です。 法華経の弘通者がなぜ迫害をうけるのかとの疑問には、「日蓮がいなければ、だれが法華経の実践者として、仏の言葉を真実として証明するのか」として、迫害をうけることが、仏の言葉の正しさのあかしとなり、末法の導師たることのあかしであるとし、「経文に我が身普合せり、御勘気をかほ(蒙)ればいよいよ悦びをますべし」と書き記しています。つまり、"仏の言葉の示すところと自己の行動とが一致しました。その証拠がこれまでの種々の迫害・弾圧なのですから、この苦難を被れば被るほど、悦びは増すばかりです“とされるのです。そして、一谷に移られた一年後の文永10年(1273)4月、「日蓮当身の大事」である「観心本尊抄」を執筆します。その主旨はお題目の受持による成仏救済の方法を提示したもので、昔から法開顕(ほうかいけん)の書といわれる理由です。 このように、聖人は厳しい流謫生活のなかで、自己の思想をいっそう深化させていきましたが、文永11年(1274)3月、赦免の知らせが届きました。赦免の理由は明らかではありませんが、聖人の檀越で鎌倉幕府の文官である大学三郎らの救済活動や、蒙古襲来の気配の深まりが聖人の赦免を促したのではないかと考えられています。文永11年3月13日に佐渡を出発した聖人は、13日の旅程を経て再び鎌倉の土を踏みしめました。同26日のことです。 〔身延入山〕 聖人が鎌倉に帰ってまもない4月8日、幕府は聖人を招き蒙古問題について意見を聞いています。会見したのは侍所所司の平頼綱で、蒙古が襲来する時期について尋ねました。聖人は年内に襲来するだろうと答え、自分の意見を幕府が採用しないのは仕方がないとしても、かつて承久の変に真言師が武家の調伏を祈ったにもかかわらず公家勢力が敗退した先例から、真言密教による蒙古調伏の祈祷だけはやめるよう主張しました。聖人はこのたびの諌言を、文応元年(1260)の『立正安国論』上呈と、文永8年(1271)9月の逮捕の折の諌言につづく第三度目の諌言として高く位置づけています。 しかし、頼綱はまたも聖人の意見を採用しないのみならず、真言師の祈祷だけは中止すべしとの主張も幕府は無視したのです。このころ鎌倉では雨が降らず、幕府は真言僧加賀法印に祈雨を命じたからです。幕府は聖人の考えをすべて拒否したのです。鎌倉は自分を必要としていないと感じ取った聖人の決断は早く、鎌倉に帰って一カ月後の5月12日には鎌倉を去ります。すでに三度まで諫めたのだとの思いや、国主の罪を知らしめたのであるから、もはや我が身はそれから免れたのだとの思いもあったことでしょう。また、山林に交わって世の推移を見、自身の滅後、法華経を弘めるための弟子の育成をはからねばならなかったこともあったと思われます。 聖人は12日酒匂、13日竹の下、14日車返、15日大宮、16日南部と泊まりを重ね、5月17日甲斐国(山梨県)身延に着きました。身延居住の大檀越波木井実長の招きによるものであったと思われます。 聖人は身延の山に踏み入ったとき、山中の有り様が大変気に入ったようですが、永住する気持ちはなかったようで、他に良い所が見つかるまで日本国を流浪するつもりであると考えていました。しかし、この身延の地は聖人の心にかない、天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)をこの場所に移し、中国の天台山をまのあたりに見るようだとして、ついに没年にいたるまで身延を去ることはありませんでした。 〔身延の生活〕 こうして檀越.波木井実長の所領である身延で、鎌倉からの弟子たちを帰えした聖人の孤絶な生活が始まりました。身延に入った文永11年(1274)10月、聖人の予言どおり蒙古の軍勢が大挙して九州を襲いました。いわゆる文永の役です。900艘の船に分乗した3万の軍勢は対馬を襲い、ついで壱岐を攻め、同月14日には博多湾に殺到しました。しかし、大風が起こって蒙古の軍船は沈没し、侵入をあきらめて退去していきました。 入山半年後に現実化した蒙古の襲来は、聖人にいっそうの確信をもたせ、自己をして「一閻浮提第一の聖人」であると言明しています。そして、この的中によって、亡国という危機状況のなかで聖人はなお法華経の弘まることの疑いないことと、日本の救済は法華経への帰依によってのみ可能であることを強調します。それが蒙古襲来の翌建治元年(1275)に述作した『撰時抄』でした。 建治2年(1276)3月には、清澄寺時代の師・道善房がなくなり、聖人は7月に『報恩抄』を著わして、その墓前にささげました。さきの『撰時抄』は「時」を重視しましたが、本抄では知恩・報恩を重視しています。 ただし、聖人の強調する報恩の道は、父母・師匠・国主のいうところに絶対的に随順するという世俗のあり方とはまったく異なるものでした。聖人にとっての報恩とは、そのような世俗的価値よりも、出世間の世界における救済・成仏の達成こそが真実の報恩であったのです。 身延に入った聖人のもとに門弟の訪問や随従の弟子が増加し、少ないときでも40人、多いときには60人もの人が在住するようになりました。そのなかには京都に弘通した日像や、中山法華経寺第2代の日高らが聖人のもとで修学に励み、まさに門弟育成道場の観を呈するようになりました。 しかしながら、さしも頑健な聖人の身体も、たび重なる流罪生活、そして湿気多く寒気もきびしく、不十分な食糧と医薬の不足する身延山中の生活で次第にそこなわれていきます。すでに身延入山の折から身体の不調を自覚していたようですが、こうした環境のなかで、建治3年(1277)12月30日から下痢をおこし、檀越・四条金吾の投薬により小康状態を保っていたものの、弘安4年(1281)正月にまた再発、食欲不振とやせやまいで病臥の生活をくりかえし、余命いくばくもなかろうと檀越に告げたほどでした。 年が明けて弘安5年(1282)の夏をすぎて聖人に仕える弟子たちは、聖人がこの冬を身延で過ごされることを危ぶみました。そして、湯治療養のため聖人は9月8日、身延を下り、波木井実長の三男弥三郎の領内にある常陸の湯(茨城県)に向かって出発します。 〔身延出山と入滅〕 聖人は、道を身延から甲斐(山梨県)下山・河口・呉地を経て、駿河国(静岡県)竹の下に出て平塚を通り、武蔵国(東京都)池上郷の檀越・池上宗仲の館に着いたようです。9月18日のことでした。 騎乗の旅は病身の聖人にとって、大変苦しいものであったに違いありません。ついに病は常陸の場への旅を進めることが叶わぬまですすみました。 聖人はこの道すがら、すでに死を覚悟していましたが、池上到着の翌19日、身延の波木井実長にあて、9年におよんだ外護(げご)を深謝し、自分の墓を身延の沢に建てるように依頼しています。この手紙も弟子日興が代筆したものでした。 臨終近きことを知った聖人は、ここを入寂の地と定め、各地から参集した弟子・檀越たちに、最後の説法として『立正安国論』を講義し、さらに翌10月8日には多くの弟子のなかから、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六人を指定して、聖人滅後の教団指導者としました。のち、六老僧といわれる最高弟です。また、枕頭に経一丸(のちの日像)をよんで京都の弘通を委嘱しました。 そして、10月13日の午前8時、聖人は自筆の大曼荼羅(だいまんだら)を掛け、随身仏の釈尊立像を安置させ、読経のうちに寂然として遷化(せんげ→教化救済の活動の場を移す)されました。 法華経に一身を捧げた波乱の多い61年の生涯でした。14日には日昭・日朗によって入棺、厳かに葬儀が営まれ、遺骨が身延山に納められたのは10月26日でした。かくて、甲州身延には墓所が設けられ、久遠寺(くおんじ)は日蓮聖人留魂の霊地として教団の本拠となっていきます。 「日蓮宗の教え」 |