花まつりってな〜に?

 

(はな)まつりは「いのち」について(まな)(かんが)える()です

(はな)まつりは、仏教(ぶっきょう)をはじめてひろめ(くる)しみ(なや)人々(ひとびと)(すく)おうとしたお釈迦(しゃか)さまの生誕(せいたん)(いわ)い、お釈迦(しゃか)さまの智慧(ちえ)慈悲(じひ)(おし)えを(しん)じてゆくことを(ちか)()です。

また、「(はな)まつり」と()われていますように、(いろ)とりどりの(はな)(かざ)ることによって、(あたら)しい生命(いのち)誕生(たんじょう)(いわ)うことは、人間(にんげん)生命(いのち)(とうと)び、平和(へいわ)(しあわ)せをめざす人間(にんげん)(しゅう)(きょう)であるみ(ほとけ)(おし)えのすばらしさをあらわすものです。

こんにち「唯我(ゆいが)独尊(どくそん)」という言葉(ことば)は、ひとりよがりと(おな)意味(いみ)使(つか)われていますが、ほんらいは世界(せかい)でたった一人(ひとり)自分(じぶん)生命(いのち)(とうと)ぶことによって()人々(ひとびと)生命(いのち)尊重(そんちょう)するということです。その生命(いのち)(とうと)さに目覚(めざ)めることによって(くる)しみや(なや)みに(しず)んでいる(ひと)(たす)けていこう、すべての(ひと)生命(いのち)大切(たいせつ)にしていこうという(ちか)いを(かた)った言葉(ことば)なのです。

そこで、じつは「天上(てんじょう)天下(てんげ) 唯我(ゆいが)独尊(どくそん)」のことばの(つぎ)に、「三界(さんがい)皆苦(かいく) ()(とう)度之(どし)」という一句(いっく)がつづくのです。これは、「この()(くる)しみに()ちている。(わたし)はこの()人々(ひとびと)(すべ)(すく)うのだ」、という意味(いみ)です。

ですから、(はな)まつりにあたっては、たった(ひと)つの自分(じぶん)生命(いのち)(とうと)び、人々(ひとびと)生命(いのち)大切(たいせつ)にすることを(こころ)がけ、(しあわ)せと平和(へいわ)をめざし、(くる)しみ(なや)むこの()人々(ひとびと)(たす)けてゆく気持(きもち)をあらたにすることが大切(たいせつ)なのです。

また、(はな)まつりはとくに(あか)ちゃんの誕生(たんじょう)(いわ)い、(あたら)しい(ちい)さな生命(いのち)がすくすくと(そだ)つことを(いの)()でもあります。甘茶(あまちゃ)は、甘茶(あまちゃ)という(くさ)()(せん)じてとった(あま)(えき)のことですが、この甘茶(あまちゃ)はお釈迦(しゃか)さまが()まれた(とき)に、(りゅう)(あつ)からず、ぬるからず甘露(かんろ)(てん)からふらし産湯(うぶゆ)としたことになぞらえたものです。このことは、誕生(たんじょう)した生命(いのち)(いわ)い、やさしくあたたかく、(あたら)しい(ちい)さな生命(いのち)愛情(あいじょう)をそそいでゆく姿(すがた)をあらわしています。

(はな)まつりには、甘茶(あまちゃ)をもらって()むだけでなく、その甘茶(あまちゃ)にこめられた生命(いのち)(とうと)(こころ)とそれを(まも)(そだ)ててゆく愛情(あいじょう)(こころ)をまわりの人々(ひとびと)にそそいでゆくよう心掛(こころが)けることが必要(ひつよう)です。                               

        

花御堂はなみどう

 

 

花御堂といって、いろいろな花を飾りつけた小堂をつくり、この中に銅製の小さな誕生仏(天と地とを指さした童子の像)を浴仏盆とよぶ水盤の上に安置して、その頭上から竹のひしゃくで甘茶をそそぎます。
花祭り  
 
4月8日午後2時〜

花祭り

 

白い象にお乗せするのは、 お釈迦さまの母・摩耶夫人(マーヤさま)が、ある夜、白い立派な象がお腹に入る不思議な夢をごらんになって身ごもられたという言い伝えが有るからなのです

  

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