お釈迦さま

 30歳でお悟りを開かれてから 80歳までの50年間説法教化なされた釈尊は、跋提河の

畔、沙羅双樹の下で頭北面西(北枕で右脇を下にして西向きの姿勢)にして静かにご入滅され

ました。

 お釈迦様50年の説法は、生きとし生けるもの全てを御自身と同じ悟りの世界に導き、真の

幸福を得さしめるために為された訳です。と言うことはお釈迦様ご自身は50年間ずっと幸福

だったわけです。その「真の幸福状態」を「成仏・覚り」と呼んでいます。

 では、今の私たちどうでしょうか?。本当に「真の幸福状態」に在ると言えるでしょうか?

 法華経に「三界は安きことなし。猶、火宅のごとし。もろもろの苦しみが充ち満ちており、

とても怖ろしいことです。生きる苦しみ・年老いていく苦しみ・病におかされる苦しみ・死を

迎えなければならない苦しみ等に常に憂い患らわされている。」と説かれているとうり、様々

な悩みや苦しみが、まるで打ち寄せる波の様に間断なく私たちを襲って来ているのが現実では

ないでしょうか?。

 この「憂患状態」から脱し「真の幸福状態」に成るためには、やはり「真の幸福状態」で在

った人、つまりお釈迦様のお言葉に耳を傾け「成仏」を目指すことが必要なのではないでしょ

うか。

 さて、成仏(真の幸福状態)を目指そうとしている私たちには「仏性」が備わっていると云

われています。そしてお題目は「一念三千の仏種」であると日蓮大聖人はお示しくださってい

ます。

 仏性というのは、仏さまの本性を指す言葉ですが、また、私たちも仏さまになれる可能性が

あると言うことを含んでいます。

仏性と仏種は、「私達が仏さまに成れる要因である」という点においては同じようなものに

見えますが、その性質には大きな違いがあります。

仏性がこの大宇宙に存在する全てに於いて平等に与えられて常住不滅であるのに対し、一方

の仏種はあらゆる縁(条件)によって変わって行くという性質を持っています。 仏種に関し

ては、法華経方便品で「仏種は縁によって起こると知(しろ)しめす」と示されており、また

同じく法華経の譬喩品では「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん」

と説かれています。

つまり仏種とは、諸条件(縁や信の有無)によって生じたり滅したりするものだというわけ

です。

これを言い換えれば、仏と衆生との因果関係や信仰姿勢によって、私たちの成仏不成仏が決

定付けられるということです。仏種は決して仏性のように無条件で具備もしくは与えられるも

のではなく、仏さまとの繋がりや行ないが満たされてこそ植えられる「種子」なのです。

日蓮聖人は、その代表的著書である『観心本尊抄』の中で「一念三千の仏種」と表現されて

いるように、仏種は成仏の根本原理である一念三千を包含する末法衆生救済の珠であるとされ

ています。

また、「一念三千を識らざる者には仏、大慈悲を起し五字の内に此珠を包み、末代幼稚の頸

に懸けさしめたまふ」と述べておられる通り、まさしく仏に慈悲あるが故に、仏種たる妙法五

字のお題目が「全て」の末法衆生に与えられるわけですから、誰もが必ず仏種に縁があり成仏

できるわけなのです。

簡単に言いますと、仏性と呼ばれている畑に仏の種を植え付けて育てていくことで仏と成る

ことが出来るのです。

極論になるかも判りませんが、仏性プラス仏種(お題目・南無妙法蓮華経)なくして、お釈迦

様も十方の諸仏も私たちも、この地球も大宇宙も全て「ねはん」の境地にも到達できず、また、

「真の幸福状態」=成仏することも出来ないと言うことです。

 

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