久遠大宇宙の真理そのものであるお釈迦様は法華経の中で、
「今この大宇宙のすべては私そのものであり、その中の生きとし生けるもの全て、この私の身を分けた子ども達である。
 しかし親である私の教えに耳を傾けず、只煩悩の赴く儘に右往左往し、この世が無常である事を覚らない迷える子にとっては、生老病死の憂いから抜け出すことが出来ず、常に苦しみに苛まれている。
 この者達の苦しみを除き、真の幸せを与える事が出来るのは、この私だけであり、また私の義務でもある。」と、仰って居られます。

 御仏がこの世に現れ説き示さるる教えは総て私達を救わんが為なのです。

 此の世の大導師たる日蓮大聖人は如来滅後五五百歳始観心本尊抄に、

法華経には仏種の妙法、即ち佛になる種が内包されていることが説かれている上、私たち凡夫の心に仏界を具足するとも説かれています。
 ですから、この経を受け持つ者は、いまだ布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を一々に修行することがなくても、六波羅蜜修行の功徳がおのずからその身にそなわってくるのであります。
 つまり、釈尊の因行の法、果徳の法は、すべて妙法蓮華経に具足しているということであって、凡夫の我々がこの妙法蓮華経の五字を受け持つならば、おのずからその因行と果徳との功徳を譲り与えられて、釈尊と同体の仏となるのである。」とお示しなされておられます。

 殊に、本当の教えが隠れてしまい、人の心を惑わす邪悪な思想が我が物顔で罷り通る末法と云われる現代に於いて、事の正邪を弁え、人が人として正しく生きていく事すら猶困難な事であります。

 況や、一切衆生が頼みとしなければ為らない真実の教えである法華経を能く理解し実践するということは、私達末代幼稚の者にとっては至難の技で有りましょう。

 然し乍ら、この世の真理そのものである御仏は、大慈悲をもって、御仏の種を妙法蓮華経の袋に包み込んで、私達末代幼稚の頸に懸けて下さっております。

 私達はこの事を疑わず、素直に信じ、法華経にその身を任せ、唯、南無妙法蓮華経とお唱えをし日々の生活を疎かにせず真摯に活きていく事によってのみ迷いのない真の幸せである御仏の世界、即ち霊山浄土へ詣る事が出来るのであります。

 是を「霊山往詣」と言い、慈悲にあふれた自由闊達な精神状態・即ち「お釈迦様が住せられた幸福状態」を生きたまま体現する事が出来ると言うことなのです。

 

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