日蓮宗(にちれんしゅう)のおしえ
日蓮宗宗義大綱

1、宗義(しゅうぎ)体系(たいけい)

日蓮宗(にちれんしゅう)は、日蓮聖人(にちれんしょうにん)(しん)解体(げたい)(とく)せられた法華経(ほけきょう)を、本宗(ほんしゅう)における()(きょう)(ぎょう)(しょう)基本(きほん)とし、これによって五綱(ごこう)三秘(さんぴ)構成(こうせい)し、もって宗義(しゅうぎ)体系(たいけい)とする。


2、五綱(ごこう)意義(いぎ)


五綱(ごこう)は、日蓮聖人(にちれんしょうにん)法華経(ほけきょう)(しん)解体(げたい)(とく)せられるに(あた)り、考案(こうあん)基盤(きばん)とされた(きょう)()()(こく)()(じょ))五箇(ごか)(きょう)(はん)であって、(きょう)()とを(あき)らかにする。(さら)にそれは、(しゅう)(きょう)活動(かつどう)における自覚(じかく)()(きょう)(ほう)()(しめ)すものである。

(きょう)は、一念(いちねん)三千(さんぜん)(つつ)法華経(ほけきょう)寿量品(じゅりょうほん)肝心(かんじん)南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)をいい、五重(ごじゅう)相対(そうたい)四種(ししゅ)三段(さんだん)(など)(きょう)(はん)によって(せん)(けん)されたものである。

()は、(きょう)(あた)えられる対象(たいしょう)で、末法(まっぽう)凡夫(ぼんぷ)をいい、(ひと)しく下種(げしゅ)大益(だいやく)享受(きょうじゅ)する。

()は、(きょう)必然的(ひつぜんてき)相応(そうおう)する末法(まっぽう)(こん)()意味(いみ)である。

(こく)は、(きょう)流布(るふ)する()であり、日本(にほん)(はじ)めとする全世界(ぜんせかい)(こく)である。

()は、(きょう)()()(こく)意義(いぎ)次第(しだい)とを()り、これを自覚(じかく)し、実践(じっせん)する(ぶっ)(きょう)(しゃ)である。


3、三秘(さんぴ)意義(いぎ)

三大(さんだい)秘法(ひほう)は、本門(ほんもん)教主(きょうしゅ)釈尊(しゃくそん)末法(まっぽう)衆生(しゅじょう)のために、本化(ほんげ)菩薩(ぼさつ)()(ぞく)された南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)一大(いちだい)秘法(ひほう)(もと)づいて、開出(かいすい)されたものである。
日蓮聖人(にちれんしょうにん)は、この一大(いちだい)秘法(ひほう)行法(ぎょうぼう)として本門(ほんもん)本尊(ほんぞん)本門(ほんもん)題目(だいもく)本門(ほんもん)戒壇(かいだん)開示(かいじ)された。
末法
(まっぽう)
衆生(しゅじょう)は、この三大(さんだい)秘法(ひほう)(ぎょう)ずることによって、(みほとけ)証悟(しょうご)安住(あんじゅう)する。


本門(ほんもん)本尊(ほんぞん)は、伽耶(がや)成道(じょうどう)釈尊(しゃくそん)が、寿量品(じゅりょうほん)でみずから久遠(くおん)常住(じょうじゅう)如来(にょらい)であることを(かい)(けん)された(みほとけ)である。
宗祖(しゅうそ)
は、この(みほとけ)本尊(ほんぞん)(あお)がれた。
そして釈尊(しゃくそん)(さと)りを南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)(あら)わし、虚空会上(こくうえじょう)来集(らいしゅう)した諸仏(しょぶつ)諸尊(しょそん)が、その(ほう)帰一(きいつ)している境界(きょうがい)図示(ずし)されたのが大曼荼羅(だいまんだら)である。


本門(ほんもん)題目(だいもく)は、釈尊(しゃくそん)(さと)りの一念(いちねん)三千(さんぜん)南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)具象(ぐしょう)したものである。(みほとけ)はこれを(きょう)(ぼう)として衆生(しゅじょう)(あた)え、我等(われら)凡夫(ぼんぶ)は、これを三業(さんごう) (身(しん)口意(くい))に受持(じゅじ)して行法(ぎょうぼう)を成就(じょうじゅ)

本門(ほんもん)戒壇(かいだん)は、題目(だいもく)受持(じゅじ)するところにそのまま現前(げんぜん)する。
これを即是(そくぜ)道場(どうじょう)()戒壇(かいだん)という。
四海帰妙(しかいきみょう)
(あかつき)(こん)(りゅう)さるべき事相(じそう)荘厳(しょうごん)()戒壇(かいだん)は、我等(われら)(しゅう)()願業(がんごう)であって、末法(まっぽう)一同(いちどう)強盛(ごうじょう)行業(ぎょうごう)によって実現(じつげん)しなければならない。


4、(しん)(ぎょう)意義(いぎ)

本宗(ほんしゅう)信行(しんぎょう)は、本門(ほんもん)本尊(ほんぞん)帰依(きえ)し、(ぶっ)()題目(だいもく)(とな)え、本門(ほんもん)戒壇(かいだん)信心(しんじん)安住(あんじゅう)するを本旨(ほんし)とする。
()
(したが)って、(どく)(じゅ)解説(げせつ)書写(しょしゃ)(とう)助行(じょぎょう)(もち)いて、自行(じぎょう)化他(けた)(わた)(しん)(じん)増益(ぞうやく)せしめる。



5、成仏(じょうぶつ)意義(いぎ)


本門(ほんもん)本尊(ほんぞん)への(しん)は、(じょう)(ぶつ)正因(しょういん)であり、その(そう)口業(くごう)唱題(しょうだい)となり、身業(しんごう)には菩薩(ぼさつ)道行(どうぎょう)となる。この菩薩(ぼさつ)(どう)(そく)した生活(せいかつ)活動(かつどう)がそのまま(じょう)(ぶつ)(すがた)である。


6、霊山(りょうぜん)往詣(おうけい)


来世(らいせ)は、現世(げんぜ)相即(そうそく)する。現在(げんざい)即身(そくしん)(じょう)(ぶつ)は、来世(らいせ)(じょう)(ぶつ)意義(いぎ)をもつ。妙法(みょうほう)(しん)(じゅ)当所(とうしょ)(じょう)(ぶつ)決定(けつじょう)し、霊山(りょうぜん)釈迦(しゃか)(ぶつ)のみもとに()るのである。
(ゆえ)霊山(りょうぜん)往詣(おうけい)未来(みらい)のみのものでなく、現身(げんしん)のわが(しん)(じん)()にある。
(しゅう)()はこの境界(きょうがい)大曼荼羅(だいまんだら)図顕(ずけん)された。



7、摂受(しょうじゅ)折伏(しゃくぶく)


折伏(しゃくぶく)邪見(じゃけん)邪法(じゃほう)(しゅう)するものに(たい)して、これをくだき、正法(しょうぼう)帰依(きえ)せしめることであり、摂受(しょうじゅ)寛容(かんよう)なる態度(たいど)をもって正法(しょうぼう)(みちび)()れることである。
かように、この両者(りょうしゃ)は、(きょう)(ひろ)める方法(ほうほう)であるが、その精神(せいしん)(とも)大慈(だいじ)悲心(ひしん)(もと)づかなければならない。
しかも破邪(はじゃ)顕正(けんしょう)(ため)破邪(はじゃ)であるように、折伏(しゃくぶく)摂受(しょうじゅ)にはその行用(ぎょうゆう)前後(ぜんご)があり、また()によっても進退(しんたい)がある。


8、祈祷(きとう)意義(いぎ)


いのりは、大慈(だいじ)悲心(ひしん)(もと)づく真実(しんじつ)表白(ひょうはく)である。
本宗
(ほんしゅう)
祈祷(きとう)には、自行(じぎょう)化他(けた)(わた)って、(じょう)(ぶつ)のいのりと生活(せいかつ)のいのりがあるが、後者(こうしゃ)といえども信仰(しんこう)生活(せいかつ)助道(じょどう)となるものでなければならない。


9、(しゅう)()

(しゅう)()は、みずから本化(ほんげ)上行(じょうぎょう)自覚(じかく)()ち、(ぶっ)使()として釈尊(しゃくそん)法華経(ほけきょう)への(しん)(こう)指示(さししめ)された(しゅう)()()(ひょう)であり、直道(じきどう)(みちび)大導(だいどう)()である。

10、出家(しゅっけ)在家(ざいけ)

出家(しゅっけ)在家(ざいけ)とは、(しん)(こう)両者(りょうしゃ)(べつ)はないが、その使命(しめい)(こと)にする。
出家(しゅっけ)(もっぱ)伝道(でんどう)(きょう)()使命(しめい)とし、自己(じこ)(しん)(こう)確立(かくりつ)するとともに、(すす)んで(しゅう)(きょう)(しゃ)としての行学(ぎょうがく)二道(にどう)をはげむべきである。
在家(ざいけ)は、(しん)(こう)世務(せむ)()かすことに(つと)め、(ぶん)(おう)じて出家(しゅっけ)伝道(でんどう)(たす)けることが、(ぶつ)(どう)(ぎょう)ずることである。

 

 

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